●大阪くらしの今昔館
その名の通り、大坂の住まいの歴史と文化をテーマにした博物館です。メインとなる江戸時代の大坂の町並みを再現した広い空間や、明治〜昭和時代では精巧なジオラマによって生活風景がリアルに再現されています。

<住所>
大阪市北区天神橋6-4-20
<アクセス>
地下鉄の谷町線、堺筋線、阪急電鉄の天神橋筋六丁目駅の出口3から目の前です。他、JR大阪環状線の天満駅から徒歩約10分。

<入館時間>
10:00〜17:00 入館料600円。火曜、第3月曜、年末年始休館。

建物沿いには日本一長い商店街、天神橋筋商店街があります。中でも、この辺りが一番賑やかな場所となっています。
ビルの8・9・10階が博物館のフロアになっているのですが、まずはエスカレーターで10階へ。あら不思議、そこは浪花の街のなか。とまぁ、江戸時代の大坂の町並みを上から眺めることが出来ます。
そして、9階へ。江戸時代の大坂の店先が再現されていて、いろんなお店を覗くことができます。館内はそれほど混んでいないのですが、外国人の方の姿を多く見かけます。存在自体は有名な施設ですが、いわゆる人気の観光スポットではないのに、これは不思議です。
どこか懐かしさを感じるさせる光景は、時間が経つのも忘れてしまうほど寛いでしまいます。
隅々まで細かく町並みが再現されていて思った以上に楽しめます。
こんな路地裏も雰囲気があっていいですね。
8階フロアは近代大阪の代表的な住まいと暮らしを模型や資料で再現しているそうです。フロアの大半(全部?)が模型コーナーになってます・・・
昭和2年の心斎橋筋商店街の様子とか、大正時代の頃の天神祭の再現模型や明治45年開業の遊園地ルナ・パークなども展示されています。戦後に建設された廃車になったバスを利用した仮設住宅(城北バス住宅)の模型とかは勉強になりました。

●土佐稲荷神社(とさいなりじんじゃ)
江戸時代、もともとこの地にあった神社に土佐藩藩主、山内豊隆が伏見稲荷から稲荷大神を観請し土佐稲荷神社となりました。また、明治になって三菱財閥の創業者でもある岩崎弥太郎がこの地を譲り受け、この地で事業を行ったことから三菱の発祥の地としても知られています。

<住所>
大阪府大阪市西区北堀江4-9-7 境内自由。
<アクセス>
長堀鶴見緑地線、又は千日前線の西長堀駅から徒歩約5分。なんば駅からは千日前線で約10分、180円。心斎橋からは長堀鶴見緑地線で約5分、180円です。
稲荷神社といったら狐さんですね。
土佐稲荷神社の境内には多くの末社があります。写真は石宮社で、海上安全の神様がいらっしゃいます。
奉納された数多くの朱色の鳥居も稲荷神社ならではですね。奥には若宮神社があり、縁結びや合格祈願に御利益があるらしいです。
こちらは同じく末社の磐居社。灯籠の穴のまわりが黒ずんでいるのは、第二次大戦の大阪大空襲でのものらしいです。

境内は訪れる人も少なく、まるで時間が止まったかのような静かな空間となっています。

●露天神社(つゆのてんじんじゃ)
お初天神として親しまれる露天神社は、社伝によれば『当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀り御鎮座されたとされます。また、菅原道真が左遷によって筑紫(大宰府)へと向う際、大融寺に立ち寄りますが、途中この地で都を偲んで涙し、歌を詠んだことが社名の由来ともされます(諸説あり)。

<住所>
大阪府大阪市北区曽根崎2-5-4 境内自由。
<アクセス>
JR大阪駅、阪急梅田駅より徒歩15分程度です。地下鉄御堂筋線・阪神電鉄の梅田駅からは徒歩10分程度、地下鉄谷町線の東梅田駅は徒歩9分程度です。梅田の地下街は巨大だけではなく、かなり複雑です。鉄道の乗換えだけならそれ程迷うことはありませんが、地下の迷路を抜けて露天神社へ向うとなると大変です。取りあえずは谷町線の東梅田駅を目指してから地上に出ましょう。
末社に水天宮、金刀比羅宮があり共に一社に合祀されています。他にも境内には開運稲荷社や難波神明社といった末社もあります。普段はひっそりとしている神社ですが、場所が場所だけに正月は初詣の人々で賑わいます。
元禄16年(1703年)、人形浄瑠璃「曽根崎心中」は、当神社の境内で実際にあった心中事件を題材に書かれました。

お初と徳兵衛の物語
醤油屋の手代・徳兵衛と、遊女のお初は恋し合う仲でした。徳兵衛の叔父が縁談を進めますが徳兵衛は、お初がいるからと断ります。それに怒った叔父は勘当を徳兵衛に言い渡します。さらに叔父は、付け払いで買った服の代金を7日以内に返せと言います。
なんとかお金は工面したものの、どうしても金が要るという友人の九平次に3日限りの約束でその金を貸してしまいます。期日になり徳兵衛は返済を迫りますが、九平次はお金を返すどころか詐欺師呼ばわりしたうえに公衆の面前で徳兵衛を散々殴りつけました。兄弟と呼べるほど信じていた男の裏切りだけでなく、詐欺師呼ばわりされ面目まで潰された徳兵衛は死んで身の証を立てようとお初とともに心中しました。以後、そのヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになったそうです。

●太融寺(たいゆうじ)
821年に空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅願により創建された太融寺は、近畿三十六不動尊霊場の内の1つでもあります。源氏物語の主人公のモデルとされる天皇の皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる)公が、この地に八町四面を画して七堂伽藍を建立されとされ、本尊には嵯峨天皇の念持仏であった千手観世音菩薩を安置します。境内には豊臣秀吉の側室であった淀殿の墓所もあります(諸説あり)。

<住所>
大阪府大阪市北区太融寺町3-7 境内自由。
<アクセス>
梅田駅、大阪駅から徒歩15分程度です。露天神社も近いのでセットで行かれるのが良いでしょう。興味があれば・・・ですけど。
マニ車(経車)と呼ばれるもので、手で回すと、お経を一巻お唱えしたのと同じ功績があるらしいです。あまり見かけるものではありませんが、見かけたらなるべく回すようにしています・・・
豊臣秀吉の側室であった淀殿(浅井茶々)の墓所。子の秀頼が生き延びていれば、今の日本の姿も大きく違っていたのかもしれませんね。
こんな可愛らしい仏像さんもいらっしゃいます。日本兵ではありません、田の神(農耕の神様)です。

●観心寺(かんしんじ)
高野山真言宗の観心寺は、奈良時代の701年に役小角が開き、808年には弘法大師空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したと伝わります。後に空海の筆頭弟子であった実恵が827年に創立したこの寺は、楠木正成幼年時代の学問所でもあり、南朝ゆかりの寺としても有名です。国宝の金堂や本尊の如意輪観音菩薩(秘仏)をはじめとする多くの重要文化財も残されています。

<住所>
大阪府河内長野市寺元475
<拝観時間>
9:00~17:00 300円。

<アクセス>
南海・近鉄の河内長野駅から金剛山ロープウェイ前、石見川、小吹台行きの系統に乗車し、観心寺を下車です。
こちらは山門です。思ってたよりも境内はかなり広かったです。
真っ直ぐ進み石段を上った先に写真トップの国宝の金堂があります。室町時代(南北朝時代)に建てられたと言う金堂は、細部に禅宗様と和様を取り入れた折衷様の代表とされる建築様式を用い、大阪府下では本堂として最古の国宝建造物となっています。
石段の途中にある重要文化財の訶梨帝母天堂。こちらも室町時代のものらしいです。祀っている訶梨帝母とは、かつて子供を食べちゃったという恐ろしい鬼子母神のことです。今では改心して子供・安産の神様としても知られています。
訶梨帝母天堂の下には美しい太鼓橋のある拝殿があります。
金堂右手にある重要文化財の建掛塔もまた室町時代の建造物です。名前の通りこの建物は多層塔の建てかけの塔であったそうで、初重のみしか完成していません。
この先、建造物が多すぎてある程度写真は省きますが、弁天堂や写真の阿弥陀堂、御影堂や行者堂、本願堂(開山堂)、牛滝堂・・・他にも北斗七星にちなんだ星塚も金堂のまわりに7つも配置されています。
写真の楠木正成の首塚や後村上天皇桧尾陵に女院なんかもあったりします。
もともと京都御苑にあった饗宴場の一部を移築改造したという恩賜講堂。この隣には宝物殿があります。建造物も多く見所ある広いお寺でした。

●桜井神社
伝承によれば櫻井朝臣一族が祖先である武内宿禰命を祀ったとされる桜井神社。597年には八幡宮を合祀し上神谷八幡宮とも称されました。後に織田信長の根来攻めによって焼失しますが、拝殿だけが兵火を免れ国宝に指定されています。

<住所>
大阪府堺市南区片蔵645
<アクセス>
マイカー又はレンタカーで。公共機関では泉北高速鉄道の泉ケ丘駅からバスで桜井神社前を下車。運行本数が少ないので注意です。マイカーの場合、手前に数台止められるスペースがあります。尚、境内は自由。
鳥居はなく写真の神門が境内の入口となります。完全に雰囲気は寺院ですね・・・
そんなに広くはない境内。左に見えるのが一番の見所でもある国宝の拝殿。右のほうには稲荷神社なんかもあったりします。
こちらがその国宝の拝殿で鎌倉時代に建てられたものだそうです。この拝殿は通り抜け(馬道)ができ、このような拝殿を割拝殿と呼び、割拝殿の中でも全国的に最も有名なのがここ桜井神社の拝殿とのこと。写真トップは拝殿奥にある中門で本殿はさらにその奥になります。
桜井神社は国宝の拝殿を除いては、1588年に織田信長の根来攻めにあい、その兵火によって焼失しています。後に鐘楼や阿弥陀堂なんかも再建されたそうですが今はありません。写真は、かつての鐘楼を改造したという神輿庫。江戸時代のものらしいです。

●孝恩寺(こうおんじ)
726年に聖武天皇の勅願により、奈良時代の僧であった行基によって建立されたと伝わる考恩寺。現存する御堂は鎌倉時代後期に再建されたもので、大阪府下でも最古の部類の木造建築物として国宝に指定されています。また、建立時には釘を一本も使用していなかったことから別名、釘無堂とも呼ばれています。

<住所>
大阪府貝塚市木積798
<アクセス>
水間鉄道の水間観音駅からバスで約40分、釘無堂前を下車です。運行本数は少な目なので注意です。尚、境内は自由です。車の場合、奥に小さな駐車場があります。
もともとは観音寺という寺院でしたが、大正3年に孝恩寺が観音堂を合併したことから孝恩寺となったそうです。
当時は七堂伽藍をそなえた大きな寺院だったそうですが、豊臣秀吉の紀州攻めによって殆どが焼失してしまっています。
唯一の建造物である写真トップの釘無堂も創建当時のものではなく、鎌倉時代に改築されたと思われます。あっ、釘使ってねぇ? こういう場所には釘アリなんですね^^;
豊臣秀吉の紀州攻め以前からあったとされる三基の供養塔。

どちらかと言えば境内と言うよりも、人の家の庭といった感じで、見学時間はじっくり見ても10分もかからないと思います・・・

●南宗寺(なんしゅうじ)
南宗寺は臨済宗大徳寺派の禅寺で、戦国時代に堺を支配した武将、三好長慶(みよしながよし)が父、元長の霊を弔うため1557年に大林宗套を迎え開基。その後に大坂夏の陣で焼失するも当時の住職により再建されました。境内には徳川家康のものと伝えられる墓や、重要文化財の八方睨みの龍の描かれた仏殿や山門、唐門など見所も多いです。

<住所>
大阪府堺市堺区南旅篭町東3丁1-2
<アクセス>
阪堺電気軌道阪堺線の御陵前停留場を下車し徒歩約5分

<拝観時間>
9:00〜16:00 拝観料400円。
境内には南宗寺を創建した三好長慶像があります。三好元長の嫡男の長慶(ながよし)は父と同じく細川晴元に仕え、後に対立して幕政の実権を掌握し、あの信長よりも先に天下人になった人物とも。

他にも広い敷地内には国の重要文化財にも指定されている山門(甘露門)や鐘楼、塔頭などが建ち並びます。
南宗寺の拝観は有料になりますが、境内にある国の重要文化財のこちらの甘露門(かんろもん)は無料で拝観することができます。尚、甘露門は大坂夏の陣で焼失し江戸前期の1647年に再建されたものです。
甘露門の近くにには塔頭の徳泉庵(とくせんあん)があります。徳泉庵は臨済宗大徳寺大仙院に属する禅寺で、1648年に松江宗安(銭屋の屋号をもつ堺の豪商)が母、徳泉の菩提を弔うために創建したそうです。
ところで本堂はどこなの?駐車場からだと仏殿は近いんですが・・・
こちらは鐘楼。甘露門と同じく大坂夏の陣の後に再建されたもの。
1332年に創建された臨済宗東福寺派の海会寺(かいえじ)。当時は開口神社の西門前にありましたが、大坂夏の陣で伽藍が焼失し現在地に再建(江戸前期)されました。本堂、庫裏、門廊は国の重要文化財に指定されています。
天慶院(てんけいいん)は、もと海眼庵と称し、臨済宗大徳寺派の寺院で、笑嶺宗訴(しょうれいそうきん)が一僧尼より献上をうけ、開祖として住したのち、弟子の仙獄(せんがく)和尚に附与したものです。千利休との関係が深く、大坂夏の陣後、当庵も現在地に復興されましたが、1697年に大拙義戒(だいせつぎかい)が、千家一門の供養塔を当庵内に再興しました。1718年に高志芝巌が改築し、名を天慶院と改めました。
本源院(ほんげんいん)は臨済宗大徳寺派大仙院末に属する禅寺で、本尊は釈迦牟尼仏です。1687年に蜜玄宗要(みつげんそうよう)が薩摩藩主の祈願所として建立し、利徳庵(りとくあん)を経て本源庵と称していました1718年、大拙義戒(だいせつぎかい)により、本源院に改称しました。尚、南宗寺境内にある海会寺と塔頭の徳泉庵、天慶院、本源院はどれも内部非公開となっています。
国の重要文化財に指定されている唐門(江戸前期)は、元来は東照宮(当地にかつてあった東照宮)の本殿、拝殿に通じる門でありましたが、大坂夏の陣後に焼失し門だけが残りました。跡には水戸徳川家家老の子孫により石碑が建てられ、徳川時代には堺奉行の赴任の際には常に南宗寺に参詣していたそうです。
いたる場所で見られる築地塀は、よい雰囲気を醸し出してます。

ちなみに、トップの写真にある建物は南宗寺の本堂でもある仏殿なのですが、全体像は有料拝観の敷地外からの方がよく見えます。
ここからの見学は拝観料が必要となります。撮影禁止と見にくい場所に看板ありましたが、事前に聞いたら撮影は大丈夫とのこと。撮影は。写真は山内最古の建物の坐雲亭です。1623年、7月徳川秀忠、同8月家光の両将軍の御成の旨を記した板額が掛っています。この両将軍の御成や東照宮が祀られていることなどから、家康が後藤又兵衛の槍に刺され南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残りました。
こちらが噂の徳川家康の墓(埋葬されたといわれる場所)です。実はその後の徳川家康は影武者だったようです。信じるか信じないかはあなた次第!
回廊ってこの雰囲気がいいんですよね。
千家一門(表千家・裏千家)の墓。
三好長慶一門の墓。
利休ゆかりの実相庵。水琴窟もあるよ。。
からの〜、枯山水庭園。
東照宮跡地に建つ石碑。忠実においても大坂夏の陣では真田信繁(真田幸村)が家康の本陣に攻め込んだとされます。後藤又兵衛の槍に刺されという話が本当であっても、おかしくはないと思われます。信じるか信じないかは...
こちらの仏殿は、大坂夏の陣での焼失後、1653年に再建されたものですが、山門、唐門と同じく国の重要文化財に指定されています。
天井には八方睨みの龍が描かれており、どこから見ても龍と目が合うという不思議な図は見所の1つにもなっています。なにかと見所の多い南宗寺。大人旅にも是非おすすめしたいスポットです。

●薬祖神社(やくそじんじゃ)
菅原神社内にある堺薬祖神社は、祭神に小彦名命と神農大神を祀った神社です。小彦名命は説話『一寸法師』のモデルといわれ、医業・農業・酒造の神様です。神農大神は古代中国の伝説上の帝王で、医薬の基礎を作ったことから薬祖神として祀られ、日本最古の薬祖神社といわれ癌封じの神としても知られています。

<住所>
大阪府堺市堺区戎之町東2丁1-38
<アクセス>
阪堺電気軌道阪堺線の大小路停留場を下車し徒歩約5分。
菅原神社の楼門(随身門)は室町時代に建立しましたが、度々火災にあい現在の楼門は1677年に堺の鉄砲鍛冶・榎並屋勘左衛門の寄進によって仁王門が再建されるなど、その都度に再興・修復されています。この楼門内の左右には随身像が安置されてると書いてありす。つまり初めは寺内(常楽寺)にあった天神社が神仏分離によって仁王門から随身門になったとういことでしょうか謎。
現在の菅原神社の本殿と拝殿は、第2次世界大戦で焼失した後に造営されたそうです。本殿は楼門の奥じゃなくて、何故か横にあります・・・
天満宮や菅原神社といえば、やっぱり菅原道真との縁の深い牛ですよね。
こちらがトップの写真と同じく菅原神社内にある堺薬祖神社です。
こちらは1666年に戎島町に創建され、昭和26年に菅原神社境内に遷った(移った)堺戎神社。
境内はやや広めですが、肝心の菅原神社の拝殿は隅っこのほうです...他にも隅っこに小さな稲荷神社もありました。
南大門。なにも看板がないので詳しくは分かりません。

●開口神社(あぐちじんじゃ)
開口神社は神功皇后により創建されたと伝わり、奈良時代には開口水門姫神社とも称されています。その後、平安末期の1113年には開口村・木戸村・原村の三村の神社が合わさり三村宮(または三村明神)とも称されていたそうです。境内には744年に行基により念仏寺(廃寺)も建立され、通称が大寺であったため、堺の人々は大寺さんと愛着をこめ呼んでいるそうです。

<住所>
大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29
<アクセス>
阪堺電気軌道阪堺線の大小路停留場を下車し徒歩約5分。
開口神社の真横にある堺山之口商店街は、ザ・昭和といった雰囲気が漂うレトロな商店街です。
商店街からのアクセスは西門からとなります。
ちょうどこの西門のところには、三好元長戦死跡と刻まれた碑があります。細川晴元(六郎)に仕えた阿波国の戦国時代の武将、三好元長(みよしもとなが)。元長は足利義維をたてて桂川原の戦で細川高国を破り、短い期間でしたが堺幕府(堺公方府)を樹立したとされます。後に主君の晴元と対立し、このあたりで自害したと伝わります。
残念ながら、当時の本殿と三重塔を含めた社殿は全て空襲により焼失し、現在の社殿は昭和36年に建てられたものとなっています。
かつての堺の繁栄の名残として境内にはいくつものお社があります。手前にある三宝荒神社は別名、竈(かまど)神社と呼ばれ、台所の神様。
その奥には全国でも珍しい歯の神様を祀る白一龍神社や菅原神社や白髭神社・・・他色々。
手前には念仏寺の本尊であった薬師如来を祀る薬師社。奥には産霊神社、北辰神社、大国魂神社、恵美須神社、熊野や厳島、神明や豊受....と、名立たる神社が勢ぞろい。

●千利休屋敷跡(せんのりきゅうやしきあと)
1522年、この地で生まれ茶の湯を大成した千利休(せんのりきゅう)。天下一の茶の湯者と称され、信長、秀吉に仕えた茶道千家流の始祖でもある千利休(せんのりきゅう)の屋敷跡には、利休が茶の湯に用いるために椿の炭を沈めていたという『椿の井戸』が現存し、今も水が湧き出ています。

<住所>
大阪府堺市堺区宿院町西1丁17-1
<アクセス>
阪堺電気軌道阪堺線の宿院駅停留場を下車し徒歩約5分。

<営業時間>
10:00〜17:00 見学無料。
椿の炭を底に沈めていたという椿の井戸。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を利用して建てたものだそうです。
常駐していたガイドさんによると、この井戸の水は今では飲用には適さないらしく、観光用として井戸からポンプで汲んだものがチョロチョロと流れ出ていました。
千利休屋敷跡の向かいには堺の歴史・文化の魅力を発信する、さかい利晶の杜という文化観光施設があります。国宝の茶室「待庵」の創建当初の姿を復元した、茶室「さかい待庵」の外観見学することができる他、観光案内展示室や有千利休茶の湯館(有料)や与謝野晶子記念館(有料)などがあります。

尚、歌人の与謝野晶子の生家跡へはここから歩いて5分程度です。
こちらが与謝野晶子生家跡。何があるわけでもないですが...



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