●錦帯橋(きんたいきょう)
国指定の名勝でもある錦帯橋は、長さは橋面に沿って210m、直線で193.3m、幅は5m、橋台の高さは6.6mとなり、反り橋の構造は精巧かつ独創的で、現代の橋梁工学からみても非の打ちどころがないと言われています。

<住所>
山口県岩国市岩国
<入橋料>
300円(往復のみ) 8:00〜17:00 (24時間入橋可能、夜間照明は22:00まで)ロープウエイ往復・岩国城とのお得なセット券940円もあります。

<アクセス>
JR岩国駅からバスで約20分、錦帯橋を下車です。最寄駅でもある岩徳線の川西駅からは徒歩約15分。広島バスセンターから錦帯橋までの高速バスも有。
日本三名橋の一つに数えられる錦帯橋だてあって美しい造りです。どうしてこんな一風変わった橋かと言いますと、江戸時代、洪水の多い暴れ川であった錦川に木造橋を架けましたが、洪水の度に流されていました。そこで第3代岩国藩主、吉川広嘉は橋のないアーチ型の橋をつくる方法を考えたそうです。
しかしながら当時の技術では橋は40mくらいが限界で、200mある錦川には橋を架けることができません。そこで。川に石の島を4つ造ってアーチ橋をつなぎ、洪水でも耐えることができるようにしたそうです。こうして完成した錦帯橋は、古くなる度に架け替えられ、今もなお、美しい姿を見せてくれています。
橋下に流れる錦川。水量が少ないので暴れ川の面影ありませんです・・
24時間、橋を渡ることは可能ですが、ライトアップは22時までだそうです。実はこの橋、渡るのに有料だと知りませんでしたが、夜間は係の人がいないので、料金箱にお金を入れて渡って下さいとのとこ。誰もいないのにお金を入れる人いなそうと言うか、そもそも冬場だからなのか誰も歩いてません。
ライトアップされた錦帯橋を橋下から見上げるのも迫力あります。
下から覗くと、木組みの素晴らしい技術がよく分かります。意外なことに建造にあたって鉄も使われているんですね。

●岩国城(いわくにじょう)
関ヶ原の戦いの後、初代岩国藩主となった吉川広家によって1608年に築城された岩国城。残念ながら江戸幕府による一国一城制により1615年に取り壊され、今見る天守は昭和37年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。尚、復元する際に天守は錦帯橋からも見えるよう約50m位置を変えています。

<住所>
山口県岩国市横山3
<入城料>
260円 9:00〜16:45 錦帯橋・ロープウエイ往復・岩国城とのセット券940円がお得です。

<アクセス>
錦帯橋から徒歩では、吉川公園を抜けロープウエイ乗り場まで10分程度です。点検等のロープウエイ運休日に要注意です。
ロープウエイは15分間隔で運行しています。歩いてい行く場合、吉川家墓所からも近い紅葉谷公園より登山道があります。(ロープウエイ乗り場の人に聞いたら30分程度とのことです)。
ロープウェイを降りた広場には何故だか大きなからくり時計がありました。
こんな看板がありましたけど、う〜ん・・・どっちが近いとか書いて欲しいなぁ。同じなのかな。なら広い方が良さそうだし。
結果、往きは広い道を選択し、帰りは山道から帰りました。山道の方が若干近そうですけど、山道はそれなりの勾配があるので、このルートの方が疲れないと思います。
道の途中にある大釣井(おおつるい)。この大井戸は1609年の築城と同時につくられたもので、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられているそうです。
その先の方にある天守台。もともと天守はこの位置にあったそうです。尚、天守跡の石垣は発掘後に組み直しされたものとのこと。
さらにその奥には空堀も遺構として残されています。江戸時代に築かれた城で山城というのは全国的にも珍しく、さらに空堀があるのも珍しいそうです。
城内はこんな感じです。展示資料はあまり充実していません。
最上階の展望台です。回廊がないのが残念です。
下を覗くとこんな感じです。下から見上げるのと違って割と高さを感じます。
さらに錦帯橋方面を見ると、山の高さが200mしかないとは思えぬほど素晴らしい景色が眼下に広がります。

●岩国シロヘビの館
世界でも岩国だけに特に集中して生息している『岩国のシロヘビ』は国の天然記念物に指定されています。館内では実際にシロヘビを観察することができます。他、骨格標本や体験装置で『岩国のシロヘビ』について総合的に学ぶことができるミュージアムとなっています。

<住所>
山口県岩国市横山2-6-52
<開館時間>
9:00〜17:00 年中無休。入館料200円ですが錦帯橋・ロープウエイ往復・岩国城とのセット券提示で160円となります。

<アクセス>
錦帯橋より徒歩10分程度。右の地図では分かりづらいんですが、岩国ロープウェイ乗り場から道路を挟んだすぐ向かい側にあります。
建物の外観は立派だったので少し期待してたのですが、入館料が妙に安い・・・ 案の定、館内の見所は少なかったです。写真がほぼ館内の全体像です。
それでも、普段お目にかかれないシロヘビを見ることも出来ますし、シロヘビについての勉強もできます。
シロヘビは偶然生まれた体が白いアオダイショウのことなんですって。
あっ、動いているシロヘビも発見!!
ニョロニョロ、水を飲みに来ただけなんですね。

●吉香公園(きっこうこうえん)
岩国藩主の吉川家の居館跡につくられた吉香公園。広大な園内には他項目でも紹介している吉香神社や白山比盗_社、吉川史料館に岩国美術館、シロヘビの館や岩国城ロープウェイなどの観光スポットが存在します。さらには香川家長屋門、目加田家住宅、鵜の里、錦雲閣、微古館など見所がとにかくてんこ盛りです。

<住所>
山口県岩国市横山
<アクセス>
錦帯橋より徒歩2〜3分。錦帯橋から岩国城へと向かう道中に位置します。右の園内マップは、クリックすると拡大写真が見られます。
岩国城の内堀もまた吉香公園内にあります。実は山頂にある岩国城も正確には吉香公園の敷地内にあるんです。
つまり広大な園内です。公園になる前の藩主の日常の居館であった御土居(おどい)という場所は、岩国の政治の拠点として明治の廃藩まで残ったそうです。
公園入口にある銅像はてっきり吉川広家の銅像かと思ったら吉川広嘉でした。なにせ、今や岩国の観光のシンボルである錦帯橋を架けた殿様ですからねぇ。
こちらは県の指定文化財の香川家長屋門。名門である岩国藩家老香川氏の表門だそうです。
こちらはロープウェイ乗り場近くにある目加田(めかだ)家住宅です。案内板より引用しますと、目加田家は天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が関ヶ原の役後に岩国に移封(いほう)された時に広家に従ってこの地に移り住んだそうです。屋根に特徴があるらしく、屋根瓦は一般的な桟瓦ではなく、両袖瓦を使用しています。
こちらはロープウェイから見た目加田家住宅。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居を構えていたことが御家中系図に記録されています。この住宅は18世紀後半の建築と推定され昭和49年に国の重要文化財に指定されました。
こちらもロープウェイ乗り場近くにある吉香 鵜の里。岩国市でも夏の風物詩として鵜飼が行われているそうで、その歴史は古く1638年に萩の毛利家が鵜飼をしたいので、鵜匠と鵜を貸してほしいと吉川広嘉に依頼した記述が古文書「萩日張抜書」に残っているそうです。また、古文書「御遊覧之記」の中で、1677年には吉川広嘉の奥方などが、錦帯橋で鵜飼を観覧した記述もあるそうです。
その後、いつしか錦帯橋での鵜飼は行われなくなりましたが、戦後になってから復活したそうです。実は全国で見かける鵜飼の鵜は、性格や体格の違いから、大半が川鵜ではなく海鵜なんだそうですよ。
こちらは錦雲閣。旧藩時代には三階建ての南矢倉のあったところで、明治18年に居館跡が公園になった時にこの絵馬堂が建造されたそうです。
内堀に映えますねぇ。絵馬堂とのことですが、絵馬は見当たりませんでした。
爆撃にも建てられそうなほど重厚な岩国徴古館(いわくにちょうこかん)。岩国徴古館は物資統制下の戦時中に、旧藩主吉川家が「郷土に博物館を」という目的で建てられた建物なんだそうです。
館内は自由に入ることができ、ちょっとした資料室になってました。これといった展示物はありませんが、時間のある方は岩国の歴史を知るのには寄って損はないと思いますよ。
県の指定文化財にもなっている旧吉川家岩国事務所。現在は隣に建つ岩国徴古館の付属施設なんだそうです。目立たない場所にあり、観光スポットというか民家に紛れて建っているかのようでした・・
こちらは旧吉川邸厩門。岩国藩13代藩主、吉川経健の邸宅に附属する長屋門だそうで、位置的に観光客の通らさそうな位置にあるので、まわりには誰もいません・・

●岩国美術館
全国的にも珍しい古武具を中心とした岩国美術館。収集家でもある柏原伸二氏の所蔵品(柏原コレクション)が公開されている他、多くの陶磁器や書画などの美術品も展示します。中でも武田信玄と上杉謙信の川中島合戦を描いた『川中島合戦図屏風』は和歌山県立博物館所蔵と並び貴重なもので一見の価値ありです。

<住所>
山口県岩国市横山2-10-27
<入館料>
800円。9:00〜17:00(12〜2月は16時閉館)特定日を除き無休。美術館のため館内撮影は禁止です。

<アクセス>
アクセスは岩国城と同じ。岩国城ロープウエー乗り場のすぐ左側にあります。

●白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)
全国各地に多く存在する白山神社の総本社となるのが、石川県にある白山比盗_社。その加賀の白山比盗_社から勧請し祀られたのが岩国にある白山比盗_社です。残念ながら現在の社殿は火災によって幾度か焼失し、再建されたものとなっています。

<住所>
山口県岩国市横山2
<アクセス>
アクセスは岩国城と同じく錦帯橋より徒歩10分程度です。岩国城ロープウエー乗り場のすぐ右側にあります。尚、境内は出入り自由です。
大きな鳥居をくぐり、右手に進むとトップ写真の拝殿があります。旧記によれば白山比盗_社は876年に勧請し884年に社殿を建立、後に焼失し1389年に再建され、当時は壮麗豪華にして工作の妙を極め関西の東照宮と言われていたとか、いないとか。さらに明治に社殿を再び焼失して今に至るらしいです。
鳥居の先に四脚門が建っています。こう見ると境内は広そうですが、実に狭くて少しビックリしました。昔はとんでもなく広かったんでしょうね。
四脚門の右手には錦川水神社がありました。読んで字のごとく、錦帯橋の下を流れる錦川を水神とし祀った神社であり、昭和49年に建立されたそうです。
拝殿横にも摂末社のようなものがあるのですが、なんだか分かりませんでした。鳥居は大正2年建立と彫られていたので比較的新しい・・・何かです。

●吉香神社(きっこうじんじゃ)
岩国藩主吉川家の先祖を祀る吉香神社。現在の社殿は明治18年に白山比盗_社境内から移築されたものとなっていますが、鳥居、神門、拝殿、幣殿、本殿はどれも国の重要文化財に指定されています。

<住所>
山口県岩国市横山2
<アクセス>
錦帯橋から徒歩7〜8分程度、吉香公園内にあります。岩国城ロープウエー乗り場から歩いても2〜3分程度の場所に位置します。尚、境内は自由です。
国の重要文化財に指定されている鳥居、神門、拝殿、本殿が南北に一直線に並んでいます。神門は小型の四脚門で冠気中央に吉川家の家紋があります。
トップ写真と同じく拝殿は入母屋造妻入りで背面に幣殿が張り出し、この奥にある本殿は三間社流造で正面に軒唐破風、千鳥破風が付されています。
本殿も拝殿横から覗き見ることができます。祖霊を祀る神社は全国でも数は少なく、他では神格化された徳川家康(東照宮)や菅原道真(天満宮)などがなどが有名です。
境内の左端にある褒忠社(ほうちゅうしゃ)。以下、引用は案内板より『吉香神社の末社で、吉川広家が初代岩国藩主が寺谷(紅葉台)にある竜門寺境内に節臣廟を建て吉川家の死節の臣をまつり回向所としていたが廃藩後にこれを神社に改めたのが褒忠社である。なお、神前の石碑は節臣廟時代のもので、1865年に藩の参政山田青門が選んだものである。』

●吉川史料館
岩国藩主吉川家の所有する太刀、武具、甲冑、刀剣、古文書、美術品などを展示している吉川史料館。狐ヶ崎の太刀や吉川元春の兜のなまづ形兜、室町時代の作品である吾妻鏡や太平気などの多くの国宝、重要文化財を有します。

<住所>
山口県岩国市横山2-7-3
<営業時間>
9:00〜17:00 500円。年末年始、水曜日休館。残念ながら館内は撮影禁止となっています。

<アクセス>
錦帯橋から徒歩5分程度、吉香公園内にあります。

●吉川家墓所(きっかわけぼしょ)
吉川家代々の墓所で岩国市の礎を築いた岩国藩主初代広家から6代の吉川経永を除く12代吉川経幹まで、吉川家一族の墓が51基もあります。所狭しとずらりと並ぶ五輪塔や石灯籠は、お墓マニア?でなくとも圧巻です。

<住所>
山口県岩国市横山
<アクセス>
錦帯橋から徒歩15分程度、岩国城ロープウエー乗り場からは5分程度です。見学は自由です。ちなみに、この墓所あたりから岩国城への登山道があります。
墓所はとにかく広い敷地の中にあります。錦帯橋や岩国城は人気があっても、ここを訪れる人は皆無のようです。
一際大きな11代藩主吉川経章の墓所。
7代藩主吉川経倫(右)に正室の華厳院(左)などの大物以外にも...
6代藩主経永の次女の佐久姫や3女の益姫とか、7代藩主経倫の長女の万千代姫などなど、とにかく一族の墓所が散らばっています。
右から2代藩主吉川広正、その正室の高玄院、2代藩主吉川広嘉。
まるで墓所は迷路のように入り組んでいます。
初代藩主である吉川広家の墓を探すもなかなか見つからず、何度も行ったり来たり。実はひとつ高い場所にあるようです。ちなみに墓所の位置は所々に案内板があります。
おや?これかなと思ったら12代藩主の吉川経幹(左)と順正夫人(右)の墓所でした。他にもこの高台には広正の次男や8女、17女 広家の側室、経倫の実母などなど、お墓マニアには最高の場所ですね。
吉川経幹のお墓のところにある誰が袖(たがそで)の手水鉢(ちょうずばち)。この手水鉢は、着物の袖に形が似ていることから誰が袖の手水鉢と呼ばれ、小堀遠州が造ったものと言われています。経幹の姉の夫、小堀勝太郎(遠州の末家)が1846年に経幹へ贈り、後に毛利家と仲直りした時、毛利慶親に贈り、その写しを造って残したものだそうです。う〜ん、難しい。。
高台の端っこにようやく見つけた吉川広家の墓所。吉川家は元春が養子に入ってから毛利家の親戚となり、1600年の関ヶ原の戦以後、約270年にわたり岩国藩主を継承しました。また、その一方で岩国文化の発展にも力を注ぎ、岩国の礎を築き上げました。
ここにも手水鉢がありました。鉢なので上から見ると大きな窪みがあります。この手水鉢は「みみずく」の手水鉢と呼ばれ、広島藩家老で茶人の上田宗箇(そうこ)から桜の返礼として1625年に広家に贈られました。広家と宗箇は共に千利休に師事に交友がありました。手水鉢が今津に着いた時、広家は亡くなった後で、浄念寺に置かれました。その後、明治40年に現在地へ移されたそうです。



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