日本最大のカルスト台地として有名な秋吉台にある大鍾乳洞、秋芳洞は山口県を代表する観光スポットです。他にも宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した地とされる巖流島や松陰神社、松下村塾、萩の城下町など歴史にまつわる観光地も豊富です。グルメでは、萩の代表的な料理ちしゃなますや、けんちょう煮などの郷土料理に、瓦そば、ばりそばなど。下関ではふぐ料理も外せませんね。
<お土産>
定番は、わらび粉を使用した山口外郎(豆子郎、御堀堂などの外郎、生外郎)に、山陰堂の舌鼓、ご当地土産としてふぐ(山口では『ふく』)の加工品や蒲鉾、みかんの菓子など。

<アクセス>
宇部空港からは中心都市となる山口駅まで空港連絡バスで約60分、1500円。新幹線では新山口駅からJR山口線で約25分、240円です。
山口県には特に繁華街といったものは見当たりません。山口駅では直進していくと横に延びるアーケード商店街がありますが、昼間はそこそこ人が出歩いているものの、井筒屋の閉店する20時頃になると人影はほぼ全て消えます・・・ 尚、山口県では県庁のある山口駅周辺よりも下関駅周辺のほうが賑わいがあります。

●秋芳洞(あきよしどう)
日本三大鍾乳洞の1つでもある秋芳洞は、秋吉台の地下100mにあり、その巨大な洞内空間に幅15mもの川が流れる自然がつくり出す景観は見る者を圧倒します。なかでも百枚皿(リムストーンプール)や黄金柱(フローストーン)が見所となっています。

<住所>
山口県美祢市秋芳町秋吉
<入洞料>
1200円 8:30〜16:30(3〜11月は17:30まで。ただし16:30〜17:30は100円増し)年中無休。他、割増料金で冒険コース・闇のロマン探検(20名以上)などもあり。

<アクセス>
山口市内からマイカーかレンタカーで約50分。山口駅、または新山口駅よりバスで約1時間、1200円程度。バスは日に7〜10本程度の運行あり。最寄駅はJR美祢線の美祢駅になりますが、乗換えや運賃、バスの本数などを考慮するとこのコースは厳しいかと思います。
洞窟の入口までは、さすが有名観光地だけあって土産物屋さんが多く建ち並びます。また、山口名物の瓦そば(かっぱそば)を食べられる店も多いです。
秋芳洞は入口が全部で3ヶ所あります。写真はメインともいえる秋芳洞案内所で、基本的には行って同じコースを戻ってくることになります。他に黒谷案内所と、秋吉台にエレベーターでアクセスが可能な秋吉台案内所からも入洞可能ですが、マイカー、レンタカー、公共バス利用の場合は、この秋芳洞案内所から入洞するのがオススメです。
こちらは、上の写真の洞窟入口から少し中へ入ったところです。秋芳洞の見所といえば数々の鍾乳石もさることながら、なんと言ってもこの広い空間と、そこに流れる水量豊富な川だと思います。ここから見学時間は最短でも40〜60分程度(コースを往復するため)かかります。
入口近くにある青天井と呼ばれる場所です。この青さは、入口からの太陽光が水面に反射され、その水の青さが天井に写し出されているからなんですって。
洞窟内は照明も最低限あるだけで、実際には写真程度の暗さです。また、洞窟内は広さが広さだけに、思ったよりも寒くありません。尚、温度は四季を通じて17℃程度だそうです。
逆さ・・・逆さ洞窟? どうでもいいけど美しいざんす。
秋芳洞の見所の1つ、もしくは一番の見所となる百枚皿です。自然のつくりだす造形美に、ただただ感動。
上から見るとこんな感じです。美しいリムストーンプールですな。
こちらは広庭と呼ばれる空間にある洞内最大の石筍です。富士山を連想することから洞内富士って呼ばれてるそうです。ちなみに、ここまでは車椅子で来れるそうですよ。
こちらは千町田と呼ばれる場所で、棚田のようにはなっていませんが、大きなリムストーンプールが幾つもあります。
こちらも上の写真と同じ場所なんですが、実際にはこの程度の明るさです。
秋芳洞にも勿論鍾乳石はあるのですが、空間が広さの割にはかなり少ないです。写真は大黒柱と呼ばれる鍾乳石。尚、鍾乳石とは、つらら状に上から長い時間かけて、炭酸カルシウムを含んだ水滴が固まってつくられたもので、つらら石とも呼ばれます。そしてその水滴が下に落ちて固まり、タケノコのように育ったものを石筍(せきじゅん)と呼びます。そんでもって、写真の大黒柱のようにつらら石と石筍がつながったものを石柱(せきちゅう)と呼びます。
終盤に階段が現れます。そんな急斜面でもないので、洞窟内を見学しながらだとそれ程、苦にはなりません。写真はその階段を振り返って撮影したもの。
この後、コースにはY字の分岐点があります。右手に進むと秋吉台(カルスト展望台・秋吉台科学博物館)までエレベーターでアクセス可能な秋吉台案内所方面へ。左手に進むと黒谷案内所へと向います。まだ左手の黒谷案内所方面にも見所がありますので、左手に進んで下さい。
高さ15mもある百枚皿に次ぐ見所と思われる石灰華柱(石柱)の黄金柱(おうごんばしら)です。スゲ〜迫力です。

先ほどのY字の分岐路には『秋芳洞正面から入場されたお客様は、タイムトンネルまで観覧されて引き返されるか、黒谷に出られて・・・』と案内があります。この先に短いトンネルがあるんですが、ここをタイムトンネルと勘違いされて引き返す方が多かったです。実はもう少し先にあるのが本物のタイムトンネルでして・・・ 多少の見学スポットが残ってますのでお間違えなく。

●秋吉台(あきよしだい)
今から数億万年前、サンゴや貝類などの堆積物によって形成されたという日本最大のカルスト台地、秋吉台。一面に石灰岩がゴロゴロ点在するその景観には圧倒されます。又、秋吉台の地下には日本三大鍾乳洞の1つでもある秋芳洞が広がり洞窟からエレベーターでのアクセスも可能です。

<住所>
山口県美祢市秋芳町秋吉台山
<アクセス>
マイカー、又はレンタカーで。公共機関を利用してアクセスする場合、秋芳洞からエレベーターを使って展望台へのアクセスが可能です。
こちらは展望台からの眺めです。それにしても、かつて海だった場所が隆起してこんな景観をつくり出すとは、頭では分かっていても驚きです。ちなみに、このカルスト台地を形成する石灰岩は水に溶けやすく、長年の雨水などによって侵食し、地下には秋芳洞を含めた400以上もの洞窟があるそうです。少し地面が黒っぽくなっているのは景観を保つために年に一度、山焼きが行われるからです。立派なトレイルコースも何本かあって、遠くまで歩いている人も多いらしいですよ。

●萩城城下町(はぎじょうじょうかまち)
関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元によって築かれた萩城。その城下町には今でも江戸時代頃の面影が残っていて、山口県を代表する観光地でもあります。

<住所>
山口県萩市呉服町・南古萩町
<アクセス>
JR東萩駅、 萩駅 、玉江駅の各駅から100円の萩循環まぁーるバスが利用でき,
萩観光には便利です。新山口駅からは東萩駅へのバス(約90分、2060円)が利用でき、鉄道での移動よりも便利です。他、東萩駅からは秋芳洞へのバスも出ています。

萩観光では東萩駅周辺や、萩城跡周辺などで利用できるレンタサイクルも便利です(1日平均1000円)。
萩周辺の代表的な見所はマップの通りです。この他にも木戸孝允(桂小五郎)の生家(木戸孝允旧宅)や元総理大臣であった旧田中別邸、伊藤博文旧宅、藍場川や鍵曲などの遺構に、毛利家の菩提寺である東光寺なども見所になっています。又、一帯は窯元も多く軒を連ね、山口県の萩焼は全国的にも有名で、お土産選びも楽しそうですね。
こちらは高杉晋作像。山口を代表する偉人、長州藩士の高杉晋作(たかすぎしんさく)は、吉田松陰が講義した私塾である松下村塾に通い、清が欧米の植民地となりつつある実情を知り危機感を抱きます。やがて晋作は倒幕運動の中心人物となり、下関戦争で敗れた後に奇兵隊を創設するなどし、第二次長州征伐(四境戦争)では幕府軍を打ち負かします。以後、弱体化した幕府は後の大政奉還へと向いますが、病にてその日を見ることなく、27歳の若さでこの世を去りました。
高杉晋作像の近くにあるのが、こちらの高杉晋作誕生地です。高杉晋作は実際にこの建物で生まれ育ったらしく、座敷、次の間、居間、小室、玄関、台所が現存しているとのこと。
見学料は100円と安いものの、座敷には上がれず相応の価格設定かと。尚、休みは個人所有の建物ゆえに不定休らしいです。
長州藩士であった高杉小忠太の長男として生まれた高杉晋作。こちらの井戸(初湯の井戸)は実際に産湯に使用されたものらしいです。
萩の人気見学スポットといえるのが、萩藩の御用達をも勤めた豪商、菊屋家住宅(520円)です。1569年には大友宗麟の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時に四十八町の人を連れ、高嶺城にたてこもって防戦して毛利元就から感状を受けたり、毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路銀(資金)が不足していることを聞いて急場の難を救ったこともあるらしいです。とにかく豪商!ということです。
思ったより敷地内は入り組んでいて広かったです。この菊屋家の敷地はなんと約2000坪もあるらしいです。
その中でも主屋と蔵・書院の庭園が見学できます。写真は書院から見る美しい築山式枯山水。他にも南庭と呼ばれる大きな庭園もあるのですが、こちらは特別公開時のみの見学となっています。
こちらの柱時計は伊藤博文が初洋行した時のアメリカ土産で、今でも動いてます。
書院や長屋門などは往時の姿に復元されたものですが、主屋・本蔵・金蔵・釜場・米蔵の5棟は国の重要文化財に指定されています。
他にも釜場とか本蔵、撮影不可ですが金蔵などの見所も多かったです。タイミングが合えばガイドさんのお話を聞くことができますよ。

●萩城跡(はぎじょうあと)
指月山の麓に築城されたことから別名、指月城(しづきじょう)とも呼ばれ、関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めた毛利輝元が居城したことでも知られますが、残念ながら明治の廃城令により石垣や堀のみが現存しています。

<住所>
山口県萩市堀内
<拝観料>
210円(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と共通券)8:00〜18:30(季節変動あり)年中無休。

<アクセス>
萩循環まぁーるバス(西回りコース)で萩城跡・指月公園入口を下車。菊屋家住宅あたりから歩くと30分くらいかかります。
萩には堀内伝統的建造物群保存地区の他にも浜崎伝統的建造物群保存地区や平安古地区伝統的建造物群保存地区ってのがあります。写真は堀内地区で、観光客に人気の菊屋家住宅あたりは入っていないのが驚きです。写真で見ての通り、誰も歩いていません。一応週末なんですけどね・・
萩開府400年を記念して復元された北の総門。見学者は皆無です・・・
時間もあったので菊屋家住宅から歩いて来た訳なんですが30分以上もかかりました。バスとかレンタサイクルで城跡に向っていった人もいましたが、それが正解でしょうね。あるいはマイカー・レンタカーとか。
萩城は標高143mの指月山山頂の山城と山麓の平城を併せた平山城で、写真の左側の場所に天守閣があったらしいです。この内堀を渡った所に料金所があります。この手前には有名な萩焼資料館があります。陶芸に興味があればこちらも外せませんね。
とっても広いです。正式には萩城跡指月公園と言うらしく(たぶん)、桜の名所としても知られます。天守閣跡に進む場合は城内を直進せず左手に進みます。真っ直ぐ進むと志都岐山神社があり、神社右奥には荒れ果てた庭園とかもあります。
奥に進むと見えてくる志都岐山神社。明治11年に旧本丸付近に萩の有志が山口の豊榮神社・野田神社の遥拝所として建立したのが始まりなんだとか。主神は毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳の5柱で、他に初代から12代萩藩主が祀られています。
毛利氏13代にわたって萩城の象徴として偉容を誇っていた天守閣。小さく感じますが、ここに高さ14.4mの5層の天守閣が建っていたそうです。
城跡といっても石垣がきちんと保存されていて、それなりに見応えあります。
共通券で見学できる旧厚狭毛利家萩屋敷長屋。萩史料館の場所と間違えやすいので注意です。厚狭毛利家は、毛利元就の5男であった元秋を始祖とする毛利氏一門で、こちらの長屋は1856年に建てられたもので国の重要文化財にも指定されています。中にも上がれないし、見所的なものは特にありません・・・

●松陰神社・松下村塾
幕末の思想家・教育者で私塾、松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育した吉田松陰。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。吉田松陰を祀って建てられた松蔭神社の境内には、当時からその場所にあった現存の松下村塾や吉田松陰幽囚の旧宅など松蔭ゆかりの史跡が多く残ります。
<住所>
山口県萩市椿東松本1537

<アクセス>
萩循環まぁーるバス(東回りコース)で松陰神社前を下車。

境内自由。
境内は想像してたのよりもはるかに広く、本殿の他に松下村塾や吉田松陰幽囚の旧宅、宝物殿(至誠館)、吉田松陰歴史館などがあります。
入ってすぐの場所にある吉田松陰歴史館。吉田松陰の生涯が、70体以上のろう人形で再現されています。
歴史館は後にして、見たかった松下村塾へ。おお〜これがあの松陰先生が講義をしていた実在する松下村塾かぁ。でも、実際に松蔭が教育していた期間は1年間だけなんですって。ここにある現存の松下村塾は移築ではなく、当時からこの位置に建っていたんだって。松下村塾は身分に関係なく誰でも入塾でき、先生は塾生をそれぞれをよく観察、記録し、そこで気付いた大切なことは手紙にして渡していました。先生が手を加えて正していく教育ではなく、自分で気づかせ、個性を生かす心の通い合う教育でした。
吉田松陰が塾生に施した教育の目的は
『君臣の義(くんしんのぎ)』君主と臣下の間で守るべき正しい道
『華夷の弁(かいのべん)』日本と外国との違いを明確にすること
『奇傑非常の人』人並み外れた優秀な人材
以上の3点を育むことにありました。

門下生には高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、伊藤博文などが講義を受け、他にも多くの優秀な人材を輩出しました。
吉田松陰幽囚の旧宅は松陰の実家である杉家の旧宅で、こちらも当時からこの場所に建っていました。松蔭は1854年に伊豆の下田でアメリカの軍艦に乗り込んで密航を企てますが失敗し、萩城下の野山獄に投じられます。翌年に出牢しますが、この建物の3畳半の1室に幽囚されていました。
裏側(東側)に回るとその部屋が今も残っていました。この場所で松蔭は家族などに対して講義をし、これがやがて松下村塾の教育に発展していったそうです。
この小さな部屋で松蔭は読書と著述に専念したそうです。松下村塾の床の間に掲げられていた言葉『万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん。一己の労を軽んずるに非らざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。』

大意:多くの書物を読まずに、どうして将来語り継がれるような人になり得るだろうか。自分の労苦をいとう者にどうして人々の安らかな生活を築くことができようか。決してできない。
吉田松蔭が斬刑に処された後、明治23年に松陰の実家に土蔵造りの小祠が建てられ、これが松陰神社の前身となります。明治40年には松下村塾出身の伊藤博文や野村靖が中心となり、この祠を公の神社として創建したとされます。尚、本殿は昭和30年に建てられたものです。
旧社殿の松門神社です。こちらも新しくなっていて昭和31年に創建されたものです。現在は門下生52柱が祀られています。
参拝後に先程通り過ぎた境内にある吉田松陰歴史館へ。内部は20の場面に別れており、リアル人形で吉田松陰の一生が再現されています。吉田松陰について何も知らない方は最初に訪れたほうが良いかもしれません。

他にも境内には至誠館という宝物殿があります。無料展示室と有料展示室(500円)があります。
全シーン写真を撮ってみたんですが全てアップするのも大変なので『別れの宴』だけ紹介。このシーンでは倒幕以外に日本を救う道はなし、と決意した松蔭ですが、江戸護送の命令が来ると、死を免れぬと知った前夜、送別の宴で、門弟の松浦松洞に書かせた肖像画八枚に形身の賛を書いたとされます。

尚、吉田松陰の墓所は萩にもありますが、遺骨は東京都世田谷区にある松蔭神社内にあるとされます。



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