●円成寺(えんじょうじ)
円成寺の創建については諸説あり、寺伝によれば756年に聖武上皇・孝謙天皇の勅願で鑑真の弟子の唐僧、虚滝和尚の開山とします。1026年には命禅上人が再興し、この地に十一面観音像を安置したのが始まりとします。国宝の春日堂・白山堂をはじめ重要文化財の本堂、その内陣に安置される諸仏や、柱に描かれた極彩色の仏画には思わず見とれてしまいます。

<住所>
奈良県奈良市忍辱山町1273
<アクセス>
マイカー又はレンタカーで。公共機関の場合は、JR・近鉄奈良駅から柳生、邑地中村、石打行きバスで忍辱山(にんにくせん)を下車。バスは約35分、650円ですが本数が殆どありません・・・

<拝観時間>
9:00〜17:00 400円。
まずは平安時代に作庭されたという美しい庭園から。
応仁の乱によって1468年に再建された楼門は国の重要文化財に指定されています。ちなみに、この楼門から中には抜けられません。
伽藍のほとんどは応仁の乱によって焼失してしまい、多宝塔も同様に焼失し、現在のものは平成になってから建てられたものとなっています。
本堂側から見た楼門です。

写真トップの本堂は応仁の乱での焼失後に再建(室町時代)されたもので重要文化財にも指定されています。尚、焼失前(平安時代)の旧本堂と同じ規模と様式で建てられているそうです。内陣に安置される本尊、阿弥陀如来坐像をはじめ四天王立像も見所ですが、柱に極彩色で描かれた阿弥陀二十五菩薩来迎の仏画は息を呑むほどの美しさで必見です。どれも重要文化財にもなっています。
本堂の横に地味に建っている鎮守社の春日堂・白山堂は、実は国宝だったりして鎌倉時代に再建されたものだそうです。写真を撮り忘れましたが、隣にある小さな宇賀神本殿も重文。
こちらはその春日堂・白山堂の拝殿で、建てられたのは江戸時代ですが、これまた重文となっています。
江戸時代に再建された鐘楼。
1730年に再建のものを平成に改修したという護摩堂。

●般若寺(はんにゃじ)
寺伝によれば、般若寺は高句麗の僧であった慧潅法師がこの地を精舎としたのがはじまりで、後に聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため伽藍を建立し般若寺と命名と伝わります。国宝の楼門をはじめ数々の重要文化財が残る般若寺はコスモス寺としても有名で、9〜10月は多くの人で賑わいをみせます。

<住所>
奈良県奈良市般若寺町221
<アクセス>
JR・近鉄奈良駅から青山住宅、又は州見台八丁目行きのバスで般若寺を下車です。

<拝観時間>
9:00〜17:00 500円。
江戸時代につくられた観音石像が本堂のまわりに数多く配置されています。写真トップの本堂は江戸時代に建てられたもので、内陣にある不動明王坐像や室町時代につくられたという四天王立像などは国宝の楼門と同じくらい見応えがあります。
寺に奉納された五輪塔や石仏などの部材が雑な感じで転がっています。時代は鎌倉、室町、戦国時代とバラバラなようです。
江戸時代に建立された鐘楼。
なんといっても般若寺の見所はこの国宝の楼門であり、鎌倉時代に建立されたものだそうです。木材の角にボコボコとした繰型と呼ばれる飾りが多いのもこの楼門の特徴でもあります。ちなみにこの写真は境内外から撮影。
境内はこんな感じです。先ほどの転がっている石造物と同様に、荒れ果てた感じのする境内です。コスモス寺なので通年、シーズン外はこんな感じなのでしょうか?尚、訪問時は見学者は私だけでした。
本堂手前にある石灯籠は鎌倉時代作。
楼門と同じくらいインパクトのある十三重石塔も荒れ果てた境内に高くそびえ立ちます。東大寺の鎌倉復興に渡来した宋人石大工、伊行末が鎌倉時代(1253年)に建立されたもので重要文化財になっています。
かんまん石という怪しい健康増進石もあります。撫でてもよし、出っ張り部分にお腹や背中を押し当てても良いとのこと・・・
重要文化財の経蔵で鎌倉時代のものらしいです。見ての通り、手前のベンチが変な方向を向いていたり、本堂の裏には作業道具が雑に置かれていたりと、あまり管理が行き届いていないようです。
写真の笠塔婆の南塔・北塔の二基は、十三重石塔を建てた伊行末の一周忌に息子の伊行吉によって建立されたもので、こちらも重要文化財。
まさに荒れ果てた般若寺。桃山時代の鎮守社は崩壊寸前・・・ これほどの寺宝を多く有しているのに、廃寺のように荒れ果てた境内の般若寺でした。

●石上神宮(いそのかみじんぐう)
石上神宮は古事記や日本書紀に記される日本最古の神社の1つです。記紀の中では、神武天皇が神武東征の折に熊野で難に遭います。そこに高倉下の持ち寄った武甕雷神(タケミカヅチ)より献上された布都御魂(ふつのみたま)という剣により難を逃れました。石上神宮ではこの霊剣(布都御魂大神)を主祭神として祀っています。国宝の拝殿や摂社拝殿、重要文化財の楼門などの建造物も見所です。

<住所>
奈良県天理市布留町384
<アクセス>
JR、近鉄の天理駅から徒歩約30分です。バスは絶望的な運行本数です。駅前から続いているアーケード街を通り、天理教本部を抜けて向かうのが気分的に楽ですよ。境内自由です。
日本書紀に記されている神宮は、伊勢と出雲、そしてここ石上神宮のみなんだそうです。
菅原神社でもないのに牛の像があります。奉納された単なる撫で牛なのでしょう。取り合えず、おびんずるさんのように撫で撫でしておけば間違いないでしょう(笑)
古くから神聖視されてきたニワトリは、昭和に奉納されたものが繁殖して境内でのんびりと暮らしています。
重要文化財の楼門になります。鎌倉時代(1318年)に建立されたものらしいです。この奥には写真トップにもある国宝の拝殿があります。拝殿は平安時代のもので、日本に現存する拝殿の中では最古となります。拝殿のさらに奥には本殿があります。もともと拝殿の後ろには本殿はなく、主祭神とする霊剣(布都御魂)が土中深くに埋まっているという伝承があり、この場所は禁足地とされてきました。明治の発掘調査により、実際にこの霊剣をはじめとする神宝が出土し、後に本殿を建てこれらを奉斎したそうです。日本神話って実話だったんだ!と思わせるようなちょっと怖い話です・・・
かつてあった内山永久寺の鎮守社である住吉社にあった拝殿を、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築したもので、こちらも国宝になっています。平安時代に建立されたものだそうで、その後に何度か改築しているらしいです。尚、かつて同県にあった内山永久寺は明治の神仏分離令により廃寺となり、鎮守社の住吉社も火災によって焼失してしまっています。
こちらがその出雲建雄神社となります。

●天理教教会本部
天理教は、中山みきを教祖(おやさま)とし、江戸時代末期(1838年)に成立した新宗教です。全人類の故郷となる『ぢば』に教会本部が置かれ、広い境内には巨大な神殿や礼拝場が建ち、誰でも自由に参拝することが出来ます。また、天理市は宗教名がそのまま地方自治体名になっている日本で唯一の宗教都市でもあります。

<住所>
奈良県天理市三島町271
<アクセス>
JR、近鉄の天理駅から徒歩約20分です。駅右手から縦にのびるアーケード商店街を通り抜けて行くのが気分的にオススメです。境内自由。
駅前からこんな感じのアーケード街を通り抜けていきます。宗教都市なので振る舞いには十分に気をつけて下さい。恐らくあなたの行動は駅から監視されています。
とにかくデカイ。このスケール感は半端ではありません。天理教は神道と思われがちですが、教団側では独立した新宗教としているそうです。
振り返ると天理教教庁や天理大学などが見えます。こんな感じの屋根の建物が天理市内には、うじゃうじゃありました。
写真トップが礼拝場の中心にある神殿です。神殿中央に位置する「ぢば」には、人類創造の地点のしるしとして甘露台が据えられています。左の写真は神殿の奥にある教祖殿で、存命の教祖(おやさま)のお住まいです。存命?そう、天理教では死後の世界というものは無く、出直しと言って生まれ変わりがあるそうで、他の宗教と一線を画しています。明治20年、1月26日の午後2時に教祖である中山みきが現世での姿を隠されました。天理の町では毎日この午後2時を知らせるミュージックサイレンが流れます。
とにかくデカイ、広い、すげ〜!しか言葉が出ません。まわりに廻らせてある回廊も約800mと長いです。一度、天理教の世界を覗いてみるのも勉強になりますよ。

●霊山寺(りょうせんじ)
寺伝によれば、小野妹子の子である小野富人(通称鼻高仙人)が、湯屋に薬師三尊仏を祀り、薬草風呂にて諸人の病を治したのが遠因とされます。736年には聖武天皇の勅命で、僧の行基が伽藍を建立。印度婆羅門僧菩提僊那は地相がインド霊鷲山に似ているので霊山寺と名づけたとされます。明治維新の灰仏毀釈により伽藍の規模は半減したとされますが、国宝の本堂をはじめ、多くの重要文化財が残されています。

<住所>
奈良県奈良市中町3879
<アクセス>
近鉄の富雄駅から若草台行きのバスで約10分、霊山寺前を下車。運行本数は毎時1本程度なので注意です。

<拝観時間>
10:00〜16:00 入山料500円。ただし、バラの見頃時期は600円。
入口には大鳥居があります。この霊山寺は鎌倉時代には北条氏の帰依厚く、僧坊21ケ寺と非常に栄えていたそうです。
縦に長い境内を進み本堂を目指します。途中には薬草の天然成分のみを用いたとうい薬湯、薬師湯殿(入浴料別途)があります。冷え性、肩こり、疲労回復等にいいらしいです。
本堂の手前の坂を少し上ると、そこには国の重要文化財に指定されている三重塔があります。なんともまあ鎌倉時代に建てられたものだそうです。
山岳信仰と密教、道教などが習合した修験道の祖でもある役行者(えんのぎょうじゃ)。こちらはその役行者(役小角、神変大菩薩)を祀った行者堂で、三重塔の横にポツンと建っています。
重要文化財の鐘楼。新しく感じてしまいますが、こちらも鎌倉時代に建てられたものだそうです。
こちらは本堂の裏手にある十六所神社。明治の神仏分離以前は霊山寺の鎮守社であったそうです。中央3社は重文で室町時代(1384年)のものらしく、手前から春日社、住吉社、本社、龍王社、大神宮と並びます。

写真トップが国宝の本堂で、鎌倉時代(1283年)に建てられたもの。堂内には本尊薬師如来坐像に脇侍の日光・月光菩薩立像(お正月などに開扉)をはじめ、十二神将像、持国天・多聞天立像、大日如来坐像、阿弥陀如来坐像など、重要文化財の仏像がゴロゴロして見応えがあります。転がってませんけど・・
境内奥にある開山大師堂。もともとは開山の行基菩薩を祀っていましたが、江戸時代より弘法大師を本尊とするようになったんだとか。空海恐るべし。

ちなみに霊山寺はかつて法相宗でしたが、平安時代に弘法大師が来寺された際に真言宗を伝えられ、法相宗と真言宗の2宗兼学の寺となったそうです。
さらに奥には奥の院までの道が約1km続いているんですが、悩んだ挙句に断念しました。

●栄山寺(えいさんじ)
藤原鎌足の孫で藤原不比等の長男の藤原武智麻呂(ふじわらむろまち)が719年に建立し、藤原南家の菩提寺として法灯を伝える古刹、榮山寺。境内には国宝八角堂、梵鐘、重要文化財の石燈篭、石塔婆などが残されています。

<住所>
奈良県五條市小島町503
<アクセス>
マイカー又はレンタカーで。JR五条駅からは2km程度で徒歩約30分です。

<拝観時間>
9:00〜17:00 400円。
境内はこんな感じで、伽藍が横長に配置されています。山奥にあるせいなのか訪れる人は少ないようです。ところであの白い建物は何でしょう?休憩処かな。
と思ったら国宝の梵鐘でした。917年につくられたそうです。鐘身の美しさも含めて、京都神護寺、宇治平等院の鐘とともに日本三名鐘の一つとされているそうですよ。
七重石塔婆は平安時代のもので重要文化財に指定されています。案内板には奈良時代と書かれていましたが、平安時代後期(文化庁)が正解のようです。
その隣にあるのが室町時代の塔之堂(大日堂)。こちらも重文です。
こちらが奈良時代に建てられたという国宝の八角堂。この八角堂は、藤原武智麻呂の没後に子の藤原仲麻呂が父の菩提を弔うために建立したとされます。

写真トップは1553年に再建された本堂で、内陣に重文の本尊、薬師如来坐像が安置され、同じく重文の装飾画も残されています。本堂手前にある石灯籠もまた重要文化財に指定されているもの。
境内には村社の小島町御霊神社がありました。
すぐ横には美しい吉野川(紀ノ川)が流れています。思わず河原で夕暮れまでボーっとしてしまいました。


奈良県の観光