古くはヤマト王権が誕生して日本の国家を成立させた土地でもあり、その後に平城京が794年に平安京に遷都(せんと、首都の移転)するまで日本の政治勢力の中心地となった地域です。それだけに法隆寺や東大寺をはじめとする社寺も数多く存在し、観光名所も豊富です。又、京都や大阪までも電車で1時間程度なので何処へ行くにも便利な場所となっています。

<アクセス>
大阪駅からはJR環状線外回りで鶴橋駅→近鉄奈良線で近鉄奈良駅です。所要時間は約1時間で670円です。京都駅からは近鉄京都線で大和西大寺駅→近鉄奈良線で近鉄奈良駅です。こちらも所要時間は約1時間で620円です。
ちなみに乗換えなしでJR奈良駅にアクセスの場合は、大阪駅からJR関西本線で約1時間、800円。京都駅からはJR奈良線で約1時間、710円です。

右の写真は近鉄奈良駅。JR奈良駅に比べて利用客も多く、駅前は賑わっています。尚、JR奈良駅と近鉄奈良駅は約1km程度離れていますが、JR奈良駅からも東大寺方面へのバスがじゃんじゃん出ていますので安心です。
奈良県の繁華街といえば近鉄奈良駅周辺となります。繁華街と呼べるほどの規模はありませんが、春日大社の参道でもあり土産物屋も多い三条通りを中心に人が集まります。
三条通りから近鉄奈良駅へと通じるアーケード街(東向商店街)は、特に人通りも多く活気があります。写真では活気がないように見えますが・・・

三条通りから近鉄奈良駅と逆の方向にもアーケード街(センター街)が続いています。角っこには巾着うどんで有名なお店があります。
こちらがJR奈良駅。駅は立派ですが、近鉄奈良駅ほどの賑やかさは全くありません。

●法隆寺(ほうりゅうじ)
現存する世界最古の木造建築として知られる法隆寺(世界遺産)。金堂(国宝)には本尊である釈迦三尊像(国宝)があり、他にも薬師如来(国宝)や阿弥陀如来などの仏像が計13体安置されています。奥に見える五重塔もこれまた国宝であり、現存する世界最古の木造塔です。

<住所>
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内
<拝観時間>
8:00〜17:00(冬場は16:30まで) 1000円(西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内共通)。

<アクセス>
地図で見ると楽に歩いて行けそうな気がしますが、意外と疲れますのでJR法隆寺駅よりバスを利用しましょう。法隆寺門前行きで法隆寺門前を下車(約10分、190円)です。東大寺方面からアクセスする場合、最寄の近鉄奈良駅からもバスが出ていますが、時間と運賃を考えると電車の方がお薦めです。この場合、近鉄奈良駅からJR奈良駅までバスか徒歩(約15分)で行ってから法隆寺へと向かいます。JR奈良駅から法隆寺駅までは約10分220円の運賃です。
法隆寺の総門です。1435年に焼失し、3年後に再建されたもので国宝となっています。境内は歴史的にも宗教的にも価値のある建築物だらけなので、この先国宝シリーズは山ほど出てきます。
総門の奥には西院伽藍があります。尚、法隆寺は五重塔と金堂を中心とする西院伽藍(せいいんがらん)と、ここから右手にある八角堂の夢殿を中心とした東院伽藍(とういんがらん)に分かれています。
西院伽藍の入口となる中門です。両脇に立っている仏法の守護神でもある仁王像(金剛力士像)は日本最古のもので国宝です。法隆寺は聖徳太子が607年頃に建立した寺院で、別名を斑鳩寺(いかるがでら)と呼びます。用明天皇が自らの病気平癒のため寺の建立を発願しますが、願い叶わず亡くなります。その後、用明天皇のご遺願を継いで推古天皇と聖徳太子が607年に寺と本尊を造られたのが現在の法隆寺です。しかしながら日本書紀によると670年に焼失したそうで、発掘調査などにより現在の西院伽藍は7世紀後半に再建されたものと考えられています。
ここから有料エリアとなります。西院伽藍の目玉は金堂と五重塔で、写真は掃除中ではなく、放水訓練中の金堂(こんどう)。かつて金堂には阿弥陀浄土図など仏教絵画の代表作とも呼ばれた壁画が幾つもありましたが、昭和24年1月26日の解体修理中に火災が発生し天井部分が焼損。黒こげの壁画は非公開として今も保存されていますが、現在見られる壁画は模写したもの。尚、毎年1月26日はこの火災を切欠に文化財保護法が制定され文化財防火デーとなっています。
法隆寺のご本尊を安置する金堂は、聖徳太子のために造られた本尊でもある釈迦三尊像(中尊に釈迦如来坐像と脇侍の薬王、薬上両菩薩立像)があり、さらに太子の父である用明天皇のために造られた薬師如来座像、母である穴穂部間人皇后のために造られた阿弥陀如来座像(中尊に阿弥陀如来像と脇侍の観音、勢至両菩薩像)、それを守護する四天王像(持国天像、広目天像、増長天像、多聞天像)、んでもって吉祥天立像毘沙門天立像と難しそうなものが計13体も置かれています。
金堂の隣にあるのが世界最古の木造塔でもある五重塔。釈迦の遺骨を祀るために建てられた五重塔は、それぞれの階層が下の階に半分ぐらい埋まっている状態で地震にも強い構造になっています。又、高さは約31.5mあり、これは境内まで行けない参拝者が遠くからでも拝むことが出来るように高層になっているんですよ。
こちらは聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)で、鎌倉時代のもの(国宝)。
聖徳太子が住んでいた斑鳩宮の跡に奈良時代に建立された東院伽藍。その中心となる建物が聖徳太子を供養するための殿堂でもある夢殿(ゆめどの)です。堂内には聖徳太子の等身像、救世観音像が安置されていますが秘仏となっています。
仏教公伝
飛鳥時代になるとインドで生まれた仏教は中国から百済(朝鮮)、そして百済(くだら)の聖明王の使者が仏像や経典などを倭(日本)に持ち込み、公伝します。信仰の可否を巡り、日本には神道という宗教が根付いており、仏を拝んだら国神の怒りを招くとする排仏派の物部尾輿(もののべのおこし)と、遠いインドから西の国々にまで広まっている仏教を受け入れるべきと崇仏派の蘇我稲目(そがのいなめ)との間で対立します。天皇が「試しに稲目ちゃん、仏像を貸してあげるから拝んでみたら?」と調子のいいことを言います。ところが、運が悪いのか稲目が仏像を拝むと、疫病があちこちで発生します・・・ 祟りじゃ、祟りじゃ〜!と、物部尾輿らは天皇の了解を得て仏像を投げ捨ててしまいます。

それでも疫病は治まらず、この両者の対立には権力争いも重なり、子の蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の代まで対立は続くこととなります。馬子(ちなみに男)は仏殿を建てて懲りずに崇拝するも再び疫病があちこちで発生し、馬子自身も病にかかり、天皇までもがこの疫病で亡くなる事態に(法隆寺はこの時亡くなった用明天皇の病を治すために建てられたもの)。馬子はこれを父の稲目の時に仏像を壊したのが原因と信じますが、守屋は天皇の了解を得て寺を焼き払い仏像を海に投げ捨てます。んが、やっぱりと言うか、当然と言うべきか疫病は治まらず守屋も病にかかり後の天皇までもが病に・・・ 祟りじゃ、祟りじゃ〜!と、お互いが叫び、もはやどっちの祟りなのか訳が分からなくなり、やがてお互いの権力争いも混じり武力で決着をつけることとなります。尚、聖徳太子の名で知られる本名、厩戸皇子(うまやとのみこ)は、蘇我氏と血縁関係にあることから蘇我馬子側につきます。結果、馬子側がこの戦いに勝利し蘇我氏が物部氏を滅ぼす形で決着がつき、新しい天皇を即位させ皇太子には聖徳太子がつき、後に財産や武力を有する氏や姓にとらわれることのなく、才能を基準にし能力あるものは役人に登用するという制度である冠位十二階(かんいじゅうにかい)や、今の憲法の元祖とも言うべき十七条憲法を制定します。

●東大寺
奈良の大仏として世界的にも有名な東大寺(世界遺産)は奈良仏教、南都六宗ののひとつである華厳宗の盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)を本尊とした寺院で、古くは聖武天皇と光明皇后との子である皇子、基王(もといおう)が生後1歳にして亡くなり、その菩提のために建てられた金鐘山寺(きんしょうさんじ)が起源となっています。また、全国における国分寺の中心となる総国分寺として位置づけされていました。
<住所>
奈良県奈良市雑司町406-1

<拝観時間>
11月〜2月 8:00〜16:30
3月 8:00〜17:00
4月〜9月 7:30〜17:30
10月 7:30〜17:00
拝観料は500円。無休。
<アクセス>
JR奈良駅又は近鉄奈良駅からバスで大仏殿春日大社前を下車し徒歩5分程度。歩きの場合、JR奈良駅からは徒歩で30分程度、近鉄奈良駅からは徒歩20分程度かかりますが、あちこちにいる鹿を見ながら奈良公園を通り抜けて行くのもお薦め。
鹿は奈良公園に沢山いますが、東大寺周辺にも恐ろしい数の鹿がいます。鹿せんべいは道のあちこちの露店で売っていますが、せんべいを手にしたとたんに間違いなく囲まれてしまうので小さなお子さんがいる場合は注意です。特に5〜7月の出産期、9〜11下旬の発情期は気が荒いので御用心。
入口となる国内最大の山門となる南大門です。平安時代に台風によって倒壊してしまい現在の門は鎌倉時代に再建されたもので国宝です。
吽形(うんぎょう)像
阿形(あぎょう)像
南大門の左右には守護神でもある仁王像(金剛力士像)が睨んでいます。通常、山門に立つ金剛力士像は右側に開口の阿形(あぎょう)像と、左側には口を閉じた吽形(うんぎょう)像とが対になっていますが、南大門にある金剛力士は左右逆になってる上に向き合う形で立っています。当時は仏教が公伝され、まだ150年余りのことですから難しい決まり事がなかったようですね。
出たぁ〜〜〜、奈良の大仏さんだ!高さ14.7mもある大仏は迫力満点です。仏教の教えにより743年に聖武天皇が国民に大仏造立を呼びかけます。752年にはほぼ完成をし盛大に開眼供養会(法要)が行われました。当時は国を挙げての大事業であり、莫大な国費が費やされたそうです。南都焼討などの2度の兵火による焼失よって大仏殿は江戸時代に再建されたものであり、大仏さんも台座や体の一部など現存するものの殆どが江戸時代、鎌倉時代に修復されたものです。
東大寺の本尊でもある盧舎那大仏(毘盧遮那仏)及び大仏殿は、仏教の教えのためだけではなく、当時の社会不安を打ち消すために造られました。この時代、飢饉や凶作、大地震、天然痘の流行など多くの問題を抱えていました。そこで、聖武天皇は国の安定を願い、全国に国分寺と国分尼寺(男子禁制)を建てることを命じます。これらの国分寺の総国分寺として平城京(当時の首都)の東に建てられたのが東大寺です。
そもそも大仏さんて誰なのでしょう?仏教には大きく分けて小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教とがあります。上座部仏教が僧侶などのように厳しい修行をして悟りを開いた人のみが救われるのに対して、大乗仏教では世の中の全ての生き物を救済しようという教えなのです。なんか大乗仏教の方が立派な教えのような気もしますが、修行もせずに楽して救われようとする考え方も複雑ですね。そんなことは置いといて、この大乗仏教の仏が毘盧遮那仏であり、宇宙仏つまりは宇宙そのものの事なのです。なんか知らんけどすげ〜!なのです。その宇宙人・・いえ、宇宙そのものの真理を人の姿として表したのが奈良の大仏さんなのです。
人生には様々な苦難があります。悲しみや憎しみ、不安や恐怖など身の周りに起こる不幸な出来事。これらの生きることに対しての苦から脱した者(開放された者)、つまりは悟りを開いた人を仏陀(ブッダ)と呼び、仏教の開祖でもある釈迦(入滅後は神格化した釈迦如来又は釈迦牟尼仏)は有名人ですね。
大仏殿(金堂)の大仏さんから、右回り(お寺の基本のまわりかた)の順路で最初に登場するのが、悟りを求めて修行する虚空蔵菩薩です。
西の方角を守る廣目天です。四天王の中の1人なのですが、あとの3人は反対側に多聞天が、増長天と持国天は・・・ 頭だけ何処かにありました^^; 未完成らしい。
んぬ?この穴は一体・・・ この柱の穴をくぐり抜ければ何か御利益があるとかないとか。結構たくさんの人が挑戦していますが、実はこの柱に穴が開いている理由は謎です。鬼門よけの穴とも言われますが、実際には鬼門からも少し外れ、湿気よけとしては穴が大き過ぎます。実際に関係者の方にも聞いてみたところ、謎とのこと。なんとも不思議な穴ですが、取り合えずくぐってみましょう(笑)
こちらは多聞天です。毘沙門天の名でも知られ、あの上杉謙信も武神でもある毘沙門天を信仰し、旗印の「毘」の文字は有名ですね。・・・有名ですか?
え〜っと、この写真さっきも見ましたね。いえいえ、こちらは如意輪観音菩薩。やっぱし、修行中の姿です。
東大寺へと続く道にはお土産物屋さんがいっぱい並んでいます。鹿もこの辺りはウヨウヨしています。
有料である大仏殿の他にも、東大寺の境内には無料で見学できる多くの建造物があります。法華堂(三月堂)、二月堂、開山堂、転害門などは国宝にも指定されている建造物ですが、なにせ奈良・京都には国宝がゴロゴロし過ぎていて、人気のない場所も・・・
国宝オーラを発していない法華堂(三月堂)。この隣には重文の四月堂とかもありますが、かなりの観光客にスルーされます。。
ただ、見た目のインパクトがあるこの二月堂だけは観光客も多く、舞台からは奈良市内を一望することもできます。毎年3月に人々の罪の懺悔をする、お水取り(修二会)の行事が行われる場所としても知られています。
奈良市内を一望というか、東大寺を一望といったほうが正解なのでしょうか・・
長谷寺みたいな登廊もあったりします。
大仏殿だけではなく、東大寺境内を全てを見学・参拝するとなったら恐らく半日は費やすでしょう。お暇な方は講堂跡や東塔跡、念仏堂や行基堂 など、見学場所には困りません。写真は指図堂にいたお釈迦様の弟子である賓頭盧尊者( びんずるそんじゃ)様です。全国旅していると、この「おびんずるさん」をよく目にします。取りあえず、ナデナデしておきましょう・・・

●春日大社(かすがたいしゃ)
710年に藤原京(新益京)から平城京へと首都が移転されると(遷都:せんと)、国の繁栄と国民の幸せを願い武甕槌命、経津主命、天児屋根命、殿比売神の神様を各地より招き、お祀りしたのが春日大社です。春日大社のある奈良公園には大仏で有名な東大寺や五重塔が有名な興福寺もあり、当社を含め世界遺産に登録されています。

<住所>
奈良県奈良市春日野町160
<拝観料>
境内自由ですが、本殿の特別参拝は初穂料500円。宝物殿400円。萬葉植物園500円。開門は4月〜10月 6:30〜17:30 11月〜3月 7:00〜16:30

<アクセス>
近鉄奈良駅から徒歩約25分。バスでは春日大社本殿を下車し徒歩10分程度。市内循環では春日大社表参道を下車しすぐ。又は東大寺から徒歩で。
春日大社に祀られている四神の1つである武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、当時の大和朝廷が東国進出の重要拠点として考えていた鹿島神宮(茨城県)にある神様。この神様である武甕槌命が神鹿に乗ってやって来たと伝えられ、そんな理由から奈良には鹿が沢山いるんですよ。って誰が見たんじゃい!と、突っ込みたくなりますが・・・
天満宮の牛さんとか、場所によっては龍だったり亀だったり面白い手水舎が全国には存在しますが、勿論こちらには鹿さんが座っています。
トップの写真は本殿ではなく南門です。南門の先には拝殿はなく、一般の方は幣殿で参拝します。初穂料を払えば本殿近くまでいけますが、実際には本殿は写真の中門の奥にあります。
吊り灯籠が印象的な春日大社ですが、特に見るべきものはありません。
あるとすれば、あの有名な左甚五郎が捻った姿に改造したとされる捻廊(ねじろう)ぐらいでしょうか・・・
春日山原始林も一応は世界遺産だったりします。ここから新薬師寺方面へと抜けることができ、春日大社からの近道でもあります。

●奈良国立博物館
全国に4つある国立博物館の1つである奈良国立博物館。奈良公園内にあり、同場所には東大寺、興福寺、春日大社などの観光名所が揃っていて、仏教関連の展示が中心となっています。

<住所>
奈良県奈良市登大路町50
<観覧料>
520円。9:30〜17:00(4月末〜10月末の金曜は19:00まで他)
月曜日休館

<アクセス>
近鉄奈良駅から徒歩約15分。市内循環では氷室神社・国立博物館を下車すぐ。コース的には東大寺→春日大社→博物館→興福寺→近鉄奈良駅のルートが個人的にはお薦めです。

●興福寺(こうふくじ)
世界遺産でもある興福寺。古くは藤原鎌足の夫人、鏡大王が夫の病気回復を願い釈迦三尊像を本尊として建立した山階寺(やましなでら)が起源であり、その後に山階寺は藤原京、平城京へと首都移転に伴って寺も移りました。手前に見える東金堂、そしてシンボルでもある五重塔も室町時代に再建されたものですが、木造塔としては京都にある東寺の五重塔に次ぐ高さを誇ります。

<住所>
奈良県奈良市登大路町48
<アクセス>
近鉄奈良駅から徒歩5分程度。境内自由ですが国宝館は600円、東金堂300円(堂内)、共通券が800円となっています。

明治時代に、政府が神道を支援し仏教施設の破壊(廃仏毀釈:はいぶつきしゃく)を行います。このため、興福寺には今尚、塀などがありません。写真の南円堂も1789年に再建されたものですが、境内には鎌倉時代の北円堂や、トップの五重塔や隣の東金堂なども再建とはいえ室町時代のもので国宝です
奈良のシンボルタワーともいえる五重塔です。何度見ても立派です。
南円堂の裏手にある三重塔も国宝建造物なのですが、目に届かない場所にあるせいか、見物客は見当たらず。

他、東金堂の隣には国宝館があり、国宝の千手観音立像や、有名な手が6本ある阿修羅像(乾漆八部衆立像)など、とにかく国宝がゴロゴロしています。個人的には、いつもは四天王に踏みつけられている邪鬼の勇ましい像に感動しました・・

●元興寺(がんごうじ)
710年、平城京遷都にともない飛鳥の地にあった諸大寺が次々と移り、元興寺も718年にこの地に移りました。元興寺の前身は法興寺(現在の飛鳥寺)で、奈良時代には北寺と呼ばれていた興福寺に対し、元興寺は南寺と呼ばれその寺勢はめざましかったそうです。

<住所>
奈良県奈良市中院町11
<拝観時間>
9:00〜17:00 400円

<アクセス>
近鉄奈良駅から徒歩15分、バスでは福智院町下車、徒歩5分。JR奈良駅からは徒歩20分、バスでは田中町下車、徒歩5分。

ここで紹介する元興寺とは別に少し離れた場所にも元興寺があります。真言律宗の元興寺(極楽坊)と華厳宗の元興寺(塔跡)です。元々は1つの寺院であったものの元興寺(極楽坊)は智光曼荼羅(極楽浄土世界の図)の中の阿弥陀如来を本尊するのに対し、元興寺(塔跡)は十一面観音を本尊としたことから両寺院は分かれました。
元興寺(塔跡)です。ここには江戸時代頃には奈良の名物の一つに数えられていた五重大塔もありましたが、民家の火災によって観音堂とともに焼失。塔の跡なので、現在は特に見所はありません。世界遺産にも登録されている元興寺(極楽坊)はここから歩いて5分程度の場所にあります。
  • 入口である重要文化財の東門。室町時代に建立された東門は東大寺の門を移築したものだそうです。
講堂跡礎石だそうです。奥に見える建物は宝物殿。宝物殿も見所の一つですが、その前に写真トップにある極楽坊本堂(極楽堂、曼荼羅堂)の内陣に立ち寄ることを忘れずに。内陣の奥にはそれはそれは美しい板絵智光曼荼羅を拝むことができます。本堂の曼荼羅図は模写ですが、実物は年に一度の特別展で公開されるそうです。
極楽院の旧庫裏です。奈良時代の東室南階大坊に附属していた小子坊。僧坊が中世書院化すると、小子坊は北の厨房となりました。現在の形に改修されたのは1663年とのことで、台所とも呼ばれ次第に庫裏としても機能していったそうです。
東大寺や興福寺と同じく1181年の南都焼討によって伽藍は焼失してしまい現在の外観は鎌倉時代に改修されたもの。写真の禅室と本堂はともに国宝に指定されています。その前にここ元興寺が世界遺産だということを知る観光客も少なく、境内は週末でも比較的静かです。。
言われてみればなんとなく似ている、かえる石。豊臣秀吉が気に入って大坂城に運び込まれたという石で、大坂城にあった頃は堀に身を投げた人も必ずこの石の下に帰ると言われたそうです。ご縁あってこの寺に移され極楽堂に向かって安置されています。

●唐招提寺(とうしょうだいじ)
奈良時代に栄えた南都六宗(倶舎宗、華厳宗、三輪宗、法相宗、律宗)の1つである律宗の総本山、唐招提寺は鑑真和上(がんじんわじょう)が建立した寺院で、鑑真は日本の仏教に戒律(かいりつ:仏教の規則)を伝えた人物でもあります。写真の本堂である金堂には本尊の廬舎那仏坐像をはじめ、薬師如来立像、千手観音立像などが安置され息を呑む美しさがあります(撮影禁止)。尚、千手観音の救済の手は大手1本が25の世界を救うと言われ、両手を除いた大手40×25=1000本(現存953本)もの手は圧巻!
<住所>
奈良県奈良市五条町13-46

<拝観料>
600円。8:30〜17:00(受付は16:30まで)

<アクセス>
西ノ京駅から徒歩10分程度。大和西大寺駅から乗り換える場合は橿原神宮前駅、又は天理駅行きで西ノ京駅まで。
駅前には地図もありますので迷うことはないかと思います。近くには薬師寺もあるのでセットで周られる観光客が殆どです。
仏教が日本に公伝されると、優れた唐(中国)の文化を取り入れようと唐と倭国(日本)との間を大使や留学僧らが何度も行き来します(遣唐使:けんとうし)。当時は遭難する船も多く、まさに命懸けの渡海です。
奈良時代に入ると、日本の仏教の発展と共に多くの経典も持ち込まれ、唐の高僧であった鑑真(がんじん)は日本に戒律(かいりつ)を伝えます。戒律とは仏教のこれだけは守らなければならないと言った規則であり、鑑真は6回もの渡航計画、12年間にも及ぶ難航海の末にようやく奈良の東大寺へとたどり着きます。唐の人間国宝としても扱われていた鑑真は、その危険な航海により出国を禁止されていたために、密航という形で日本へ来たのですが、その苦難な道のりは難破、遭難、そして疲労による両眼の失明など決して楽な渡航ではありませんでした。そして鑑真は東大寺に5年過ごした後、修行道場としてこの唐招提寺を建てました。
こちらは講堂で和上の創立に際して平城京より移築したもの。本尊弥勒如来坐像(鎌倉時代)と、持国天(奈良時代)、増長天立像(奈良時代)を安置します。
手前が経典を納めておく経蔵で、奥にあるのが宝物を納めておく宝蔵。境内の大半のものは国宝、又は重要文化財となっています。ともに奈良時代のもので、こんなんでも一応国宝です。
こちらは鑑真和上御廟。日本の仏教において鑑真の影響は計り知れないものがあったそうです。近くには御影堂があり、弟子たちが師の大往生を予知して造った和上の寿像(鑑真の肖像彫刻)が安置され、亡くなった5月6日を新暦に当てた6月6日を中心に前後約1週間だけ公開されます。
受戒の儀式を行う戒壇(かいだん)です。ここで戒律を受けないと正式な僧として認めなかった僧です。僧だけに・・・

●薬師寺(やくしじ)
天武天皇が鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の病気回復を願い藤原京に薬師寺を建てられ、天武天皇が亡くなった後に持統天皇によって完成します。やがて平城京への遷都に伴いこの地へと移転した薬師寺は、興福寺と同じく南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院であり、古くは法隆寺や京都の清水寺もこの法相宗でした。

<住所>
奈良県奈良市西ノ京町457
<拝観料>
玄奘三蔵院伽藍公開時800円。伽藍閉鎖時500円。8:30〜17:00(受付は16:30まで)

<アクセス>
唐招提寺と同じく西ノ京駅を下車しすぐ。
境内の奥のほうにある玄奘三蔵院伽藍の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)とは、小説やテレビなどでも知られる西遊記に登場してくる三蔵法師のことで、玄奘とその弟子が開いた宗派が法相宗です。

吉備内親王が元明天皇の冥福を祈り発願建立した東院堂(とういんどう)。もともとは東にある観音池付近にありましたが、973年の焼失によって鎌倉時代にこの場所へと建てかえられました。
薬師寺のシンボルと言えるのが6重に見えて実は3重の昭和に再建された西塔(さいとう)と、その裏に立つ奈良時代より現存する東塔(とうとう)です。西ノ京駅の線路を渡った場所に大池という池があります。そこからの眺めは美しく絶好の撮影スポットとなっています。
こちらは大講堂。講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則だそうで、南都仏教が現在ある宗派と違って、主に仏教の研究を行っていました。このため講堂には多くの学僧が集まり、経典を講讃していたとのこと。薬師寺の見所は何と言ってもトップの写真にある金堂に安置され、かつては黄金に輝いていたという国宝の薬師三尊像。そして薬師如来の両脇に立つ日光菩薩、月光菩薩の見事なセクシーポーズ(三曲法)。薬師三尊像と同じく国宝のその台座には世界の文様が刻まれ(裏側から見学可)、ここ奈良がシルクロードの終着点であることを実感します。

●法起寺(ほうきじ)
法起寺は606年に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮が前身で、聖徳太子が622年没すると、遺言によりに長子の山背大兄王が寺に改めたと伝わります。法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つに数えられ、日本最古となる国宝の三重塔をはじめ、平安時代につくられた重要文化財の十一面観音菩薩立像など見応えがあり、全域は世界遺産にも登録されています。

<住所>
奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873
<観覧料>
8:30〜17:00(冬季は16:30まで) 300円。

<アクセス>
法隆寺からバスで約10分、法起寺前を下車すぐ。JRまたは近鉄奈良駅からバスも出ています。途中停留所として近鉄郡山駅や唐招提寺、薬師寺、東大寺、春日大社などにも停車します。タクシーではJR法隆寺駅から1300円程度となります。
入口となる山門です。この日、近くにある法隆寺は多くの観光客で溢れかえっていましたが、ここ法起寺には同じ世界遺産でもありながら、訪れる人はポツポツといる程度でした。
境内はさほど広くはありません。じっくり見学しても20分程度ではないでしょうか。写真トップにもある奥に見える三重塔は708年に建てられたもので国宝となっています。708年って・・・・
法起寺の伽藍は時代とともに衰退し、創建当時から残る建造物は三重塔のみとなっています。写真は江戸時代に再建された講堂(本堂)。
金堂跡に建てられた聖天堂もまた、江戸時代に建てられたものとなっています。
こちらの収蔵庫には旧講堂の本尊でもある十一面観音菩薩立像が安置されています。
こちらがその十一面観音菩薩立像で平安時代のものだそうです。国の重要文化財にも指定されています。
鐘楼跡だそうです。他、現在は門としての役割は果たしていませんが、当時の正門だった場所に江戸時代に建てられた南門があります。

●法華寺(ほっけじ)
東大寺を全国の総国分寺とし、法華寺を総国分尼寺と位置づけ光明皇后が建立した女人修養の根本道場です。なので、東大寺を訪問されたら是非ともこちらにも足を運んで見ましょう。光明皇后の御尊容をうつし参らせたと伝えられる法華寺の本尊である十一面観世音菩薩は春・夏・秋の一定期間のみ特別公開されます。

<住所>
奈良県奈良市法華寺町882
<拝観料>
本堂 500円。本堂・名勝庭園・華樂園の共通券 800円。

本堂は豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建されたものであり、写真の鐘楼も同時期に再建されたものと考えられます。

又、法華寺では安産祈願、病苦災厄除けとして護摩祈願の灰を混ぜた土をこねてつくるお守り犬が評判です。尼寺とは女性のための寺であり、その中心ともなる総国分尼寺と聞けば安産祈願には特に効き目がありそうな気がしますね。
<アクセス>
大和西大寺駅から奈良駅行のバスで法華寺前を下車(北法華寺町、法華寺北町と紛らわしいバス停が手前にあり注意)。そこからバスの進行方向に向かい直進。突き当たりを右折。さらに突き当たりを右折で徒歩5分程度です。又、バスは1時間1〜2本ですので注意が必要。地図の左側方向に歩いて行けば平城宮跡まで約10分。

●平城宮跡(へいじょうきゅうせき)
710年、飛鳥に近い藤原京からこの地に都が移されます。大路小路が基盤目状に通る平城京の人口は10万人とも20万人ともいわれます。平城京の中央北部に位置する平城宮は南北約1km、東西約1.3kmの大きさで、天王の住まいである内裏(だいり)、政治や儀式をとりおこなう宮殿、様々な役所、宴会の場となる庭園などが設けられていたそうです。

<住所>
奈良県奈良市佐紀町
<アクセス>
大和西大寺駅から歩いて20分程度。バスでは奈良駅行で平城宮跡を下車。バスは1時間1〜2本ですので注意が必要。

平城宮跡はとっても広いわりに見所は少なく、バス停に降りたら地図の矢印のように進んでブラブラするだけです。下の方に進めば有名な朱雀門があります。
内裏は天皇が日常的に生活を送り、政治や儀式をおこなうところ。内裏東端部で見つかった井戸は直径1.7mのスギの木をくり抜いた井筒をすえ、まわりに切石や玉石をしきつめた立派なもので天皇のために用いられたそうです。この本物の井戸を土でおおった上に、新しい材料を使って再現したのが右の写真です。
内裏東側のこの一画で見つかった建物群は天皇家のための仕事をする宮内省関係の役所とみられているそうです。これらの発掘調査の成果をもとに、現在残っている奈良時代の建物の姿かたちを参考に、門、築地塀、建物を復原しています。又、復原にあたっては、できるだけ当時の工法を用いているそうです。
現在、徐々に遺跡の整備・建造物の復原を進めている最中で、遠くに見えるのが大極殿。位置的にはバス停のある方向です。
上の写真の位置から後ろを振り返ると見えるのがこの写真。遠くに平城宮の正門となる朱雀門(すざくもん)で1997年に復元されたものです。
もっと近づいてみます。う〜ん、もっと近づくには線路を渡らないと行けないらしい。ここまで来るのにも相当歩いたので、近くまで行く体力は残っておらず引き返しました・・・


奈良県の観光