●岩屋寺(いわやでら)
尾張高野山宗の総本山の岩屋寺は、715年に行基菩薩が導師となり聖観音の開眼供養が行われたのが始まりと伝えられ、本堂には弘法大師空海が護摩の灰で作ったとされる千手観音菩薩が本尊として安置されています。

<住所>
愛知県知多郡南知多町山海字間草109
<アクセス>
名古屋鉄道知多新線の内海駅から海っ子バス西海岸線(毎時1本程度)で松原バス停を下車し、徒歩約25分。何故だか早朝(6〜7時)と夜間(18〜21時)だけ岩屋寺へ直接停車します。尚、境内は自由です。
創建当時は堂塔伽藍十二ヶ坊、大門、楼門、多宝塔が建立され荘厳であったとの記録が残っているそうです。
こちらは阿弥陀堂で、親鸞が自ら書き納めた阿弥陀仏如来が本尊となっているそうです。
鐘楼とか。
経蔵とか。創建当時の諸堂は全て焼失しており、残念ながらどれも再建されたものとなっています。
経蔵の脇に山上へ続く道がありました。
五百羅漢?だったか忘れましたが石仏がたくさん建ってました。途中道が左手にも1本あったんですが、どうやら同じく山頂へと続く道らしいです。たぶんです・・・
ここら辺までは序の口です。あまり人気のない寺院なんですが、恐ろしく歩みの遅い悲しげな表情をした中年女性がウロウロしていて気味が悪かったです。後で知ったんですが、なんでもここは、心霊スポットとしても有名らしいです・・・もしや。
一体どこまで続くのだろうと思いながら汗だくで登りきり、山頂には弘法大師像がありました。
景色がいいと言えばいいような。ちなみに道中出会ったのは10代らしきカップル1組のみでした。デートなのだろうか?疑問です・・・
怪しい池もあります。水面近くまで近寄りましたが、何かに引き込まれたら大変なので、すぐに引き返しました。
寺を後にした私は車で走ること数分、奥之院へと向かいました。本堂から歩けない距離ではありませんが、歩くと恐らく15分程度はかかります。
なんとも立派な三重塔があります。
こちらも訪れる人は全く見当たらないんですが、不思議と人の気配を強く感じました。もしや。

●野間大坊(のまだいぼう:大御堂寺 )
通称、野間大坊の名で知られる真言宗の寺院、大御堂寺。野間大坊は天武天皇(673〜686)の時代に役小角によって阿弥陀寺として建立したのが始まれとされ、その後に行基により中興され、弘法大師(空海)は全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈ったとされる古刹です。また、一帯は源義朝の最期の地とされ、境内には義朝の墓の他、当寺(現在の安養院)で自害した織田信孝の墓もあります。
<住所>
愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50

<アクセス>
名古屋鉄道知多新線の野間駅から徒歩約10分です。名古屋駅からは1時間程度かかります。
源頼朝は、父の源義朝の為に七堂伽藍を造営したとされ、当時は境内に五重塔もあったそうですよ。

写真の鐘楼堂には鎌倉五代将軍、藤原頼嗣寄進による梵鐘が掲げられています。梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財にも指定されています。トップにある本堂は、度重なる火災により鎌倉時代の1754年に再建されたものとされます。本尊には阿弥陀三尊像が安置されています。
案内板より抜粋すると、源義朝(みなもとのよしとも)は鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)、平家を滅ぼした源義経(よしつね)の父であり、1160年に平治の乱で平清盛に敗れた源義朝公は本拠地である関東地方へ落ち延びる途中、この地野間を治める家臣の長田忠致・影致親子のもとへ身を寄せた。ところが長田忠致・影致親子は裏切りの企てをする。義朝公へ「どうぞ朝湯にお入りください。」と勧め、入浴中の裸の義朝公を風呂場にて切り付け命を奪った。武芸の達人であった義朝公は「無念。我に木の太刀の一本でもあれば、むざむざ打たれはせん。」と言って絶命したという。いつしか、そのお墓にお花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなったという。
こちらは織田信長の三男、織田信孝の墓。織田信孝は本能寺の変で父、信長が討たれた後に織田家の跡目争いで豊臣秀吉に敗れ、大御堂寺南ノ坊(現在の安養院)で自害したとされます。豊臣秀吉に切腹を命じられた信孝は悔しさのあまり、梅の掛け軸(非公開)に自分の腸を投げつけたと言われる恐ろしい安養院には、時間の都合で立ち寄れませんでしたが、近いのでセットで行かれるのがオススメです。
池禅尼の塚。平治の乱で平清盛の継母、池禅尼によって死罪を免れた頼朝。その後は伊豆へ流刑となりました。頼朝は命を助けられた恩を忘れることなく、ここに父義朝の墓とともに池禅尼の供養塔を建立したとされます。

●常楽寺(じょうらくじ)
西山浄土宗の寺院、常楽寺。1484年、栄覚上人によって開基され常楽寺は、徳川家康が桶狭間の戦いや本能寺の変、豊臣秀吉に臣従するために上洛した際にも逗留したとされ、徳川家康ゆかりの寺としても知られます。

<住所>
愛知県半田市東郷町2-41
<アクセス>
名鉄河和線の青山駅、又は成岩駅から徒歩で約5分です。 名古屋駅からは電車で40分程度です。
家康の3度に渡る来山は、当山発展の一大原動力になったとされ、歴代の藩主も常に参詣していたそうです。しかし、伽羅の建物は大正13年に火災にてその殆どが焼失してしまい、本堂(昭和15年)や写真の山門(昭和62年)も再建されたものとなっています。
法橋円覚作による小さな木造の阿弥陀如来立像が本尊となっています。

●入海貝塚(いりみかいづか)
入海神社内に所在する入海貝塚は、今から約7000年前の縄文時代早期の貝塚で、東海地方における初期縄文文化をを知る上で貴重な遺跡です。昭和20年代に発掘調査が行われ、入海貝塚から出土した縄文土器は、東海地方の縄文時代早期の基準となり、入海式土器と呼ばれています。その後、昭和28年には国の遺跡に指定されました。

<住所>
愛知県知多郡東浦町緒川字屋敷1区48
<アクセス>
JR武豊線の緒川駅から徒歩約10分。名古屋駅から緒川駅までは電車で約30分です。有名な観光スポットではありませんので、事前に地図で正確な位置を確認しておいたほうが安心です。
入海貝塚は日本武尊の妃、弟橘媛命を祭神とする神話伝説の地でもある入海神社の境内にあります。
訪れる人は皆無に近い神社です。でも、こんな静かな神社、けっこう好きです。
入海神社の拝殿です。貝層は神社の拝殿・本殿の東方(ここから右手)の段丘崖に沿って、貝層が幅約10m、長さ80mの範囲に分布しています。発掘調査では石器や骨角器、縄文人の食べたシカやイノシシの獣骨なども出土しています。生活の中心は植物採取で、ドングリなどを食糧とし、野山ではシカやイノシシ、海では魚や貝を獲っていたと思われます。
境内を貝殻探してウロウロしてみましたが、トップの写真の一画にしか貝殻は無かったです。
貝の種類はハイガイが約75%、マガキが約15%で、他にアカニシやシジミが見られます。貝層の厚さは薄いところで40cm、暑いところで110cmもあるそうです。トップの写真を見ての通り、一応入ってはいけないような柵があるんですが、そのすぐ脇に通ってもいいような通路もあります。縄文人が食べていたであろう約7000年前の貝殻があるというのに、この管理の緩さには驚きです・・・



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