●豊川稲荷(とよかわいなり)
日本三大稲荷の1つでもある妙厳寺は、広く一般的には豊川稲荷で知られる寺院です。寺伝によれば、1243年に宋代の中国へ渡った寒巌義尹が、船で帰国の道中に白狐に跨った霊神が稲束を荷い、手には宝珠を捧げて空中に姿を現したそうです。後に自ら霊神の形像を刻まれ、東海義易が1441年に妙厳寺を創建するに際して本尊を千手観音とし、山門の鎮守として霊神の荼枳尼天(だきにてん)像を祀ったそうです。

<住所>
愛知県豊川市豊川町1
<アクセス>
JR豊川駅から徒歩3分程度です。豊橋駅からはJR飯田線で約15分、名古屋駅からは約90分、浜松駅からは約50分となっています。
さすがは稲荷!
JR豊川駅・名鉄豊川稲荷駅の前でキツネさんが出迎えてくれます。
駅を出て左手にある大通りを進めば豊川稲荷への近道となりますが、表参道は駅正面の細い道の方となっています。
せっかくなので表参道から行ってみましょう。
こちらが明治17年に建立された総門となります。豊川稲荷は日本三大稲荷の1つとして全国的にも有名なので、意外にも小さい総門に多少の戸惑いがあります。
総門から振り返って見た絵です。表参道には稲荷寿司の専門店がズラリと建ち並んでいます。
恐らく立地からして一番の有名店だと思われる門前そば山彦で稲荷を買って食べてみました。左角のオレンジ色が目立つお店です。そこそこ味が染み込んでいて、そこそこ美味しい稲荷でしたよ。個人的にはしょっぱいくらいの味の染み込んだ稲荷が好きなものでスイマセン・・
総門をくぐって左手にすすむのが正式な参拝ルートらしいのですが、鐘楼とその先にある門が気になったので寄ってみました。この鐘楼は昭和12年に建立したものらしいです。
こちらの門は山門だそうで、1536年に今川義元によって寄進されたものだそうです。え、今川義元?なんか物凄い建造物なような気がしますが、そのオーラを完全に消し去っています。なんでも豊川稲荷は室町時代に今川義元が伽藍を整備したそうですよ。ちなみに両脇の仁王像は昭和のものらしいです。この奥に法堂、つまりは豊川稲荷(妙厳寺)の本堂があるのですが工事中で見れませんでした。。。
山門からも分かるように豊川稲荷は今川義元や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などからも保護を受けていました。再び正式な参拝ルートに戻ります。正面奥に見えるのがトップの写真にもある本殿となります。ちなみに豊川稲荷は寺院ですから、正確には稲荷神ではなく荼枳尼天を信仰の対象としていて、寺院⇒本堂、神社⇒本殿のイメージが強いせいか本殿と聞くと違和感があります。明治時代の神仏分離令によってこんな感じになってしまったんですね。尚、本殿は比較的に新しく、昭和になってから建てられたもの。
こちらは1824年に建立された豊楽殿。
一部しか見れませんでしたけど庭園もあります。江戸時代に書院の庭園として作庭されたものだそうです。
ここにも狛犬ならぬ狐さんがいらっしゃいました。
本殿でオンシラバッタニリウンソワカ~と唱えて2礼2拍手1礼で参拝した後は弘法堂や大黒堂などを見学しつつ霊狐塚へと向かいます。
本尊はあくまで千手観音なのですが、鎮守の荼枳尼天の使いである狐さんがやっぱり主役となってしまいますね。神仏分離となったのには、そんな理由があったのでしょう。もっとも江戸時代の頃より稲荷神(荼枳尼天)=狐と誤解されていたようです。
奉納された恐ろしい数々の狐さんたち。
全部で1000匹以上ものキツネがいるらしいです。
なんか誇らしげ。どのキツネにも表情がそれぞれあって見ているだけでも楽しいです。いえ、多少は楽しいです。
こちらは1814年に建築された豊川稲荷の旧拝殿だそうです。現在は奥の院の拝殿となっていて、この奥に本殿があります。
こちらが奥の院の本殿で豊川稲荷の旧本殿となっています。ほとんど見えませんね。昭和5年の大本殿の新築によってここに移築されたそうです。
1858年に建てられた奥の院参詣の景雲門は、もとは旧奥の院の拝殿であったそうです。参拝ルート的には門の裏から入って表に出る感じになってしまってます。
結局なんだかよく分からなかったのですが、近くには近代的な三重塔も建っていましたよ。

●滝山東照宮(たきさんとうしょうぐう)
徳川3代将軍、家光は家康の生誕地に近く、家康自身も度々訪れていたという天台宗の古刹である瀧山寺に1646年に東照宮を勧請しました。極彩色、金鍍飾金具の社殿は豪華を極め、久能山・日光とあわせ日本三大東照宮の1つとされています。

<住所>
愛知県岡崎市滝町
<アクセス>
名鉄の東岡崎駅からバスで滝山寺下を下車すぐ。見学自由。尚、東照宮本殿見学は200円(土日のみ)。
室町時代に建立されたという瀧山寺の三門(山門・仁王門)は国の重要文化財に指定されています。両脇の仁王像は運慶仏師の作とされます。この三門、少し本堂からは離れた場所に(瀧山寺前の県道335号線を西へ徒歩10分程度)普通に道の途中にあります・・・
長い階段を見ると日光や久能山を思い出し、つくづく東照宮なんだなぁと感じます。仕方なく上っていきます。
こちらが県下最古の建造物で重文でもある瀧山寺の本堂になります。瀧山寺は奈良時代に役行者(役小角)によって創建された天台宗の寺院です。現在の建物は室町時代に建てられたものとなっています。
本堂の左手には鬼塚なるものがあります。その昔、祭りに鳳来寺の山伏が来て、身を浄めずに鬼面をかぶったために面が取れなくなり死んでしまったそうです。で、その山伏が埋められた場所がこの鬼塚なんだそうです。こわっ!
江戸幕府の第5代将軍、徳川綱吉によって寄進された鐘楼です。
三つ葉葵の家紋でも分かるように、瀧山寺は徳川家の他にも鎌倉幕府や足利氏などの保護も受けていました。
本堂裏手には徳川家康によって建立されたと伝わる日吉山王社本殿というのがあります。現在の本殿は東照宮建立の際に家光が修築されたものと考えられるそうです。それにしても見るからに老朽化が進んでいる様子です。
左に瀧山寺本堂、その奥に日吉山王社本殿、右手に東照宮があります。なんだかワクワクします。なにせ日本三大東照宮の1つなんですから。
でた~!豪華絢爛の東照宮。極彩色豊かな社殿は東照宮ならではですね。なんか規模が小さいですけど・・・ 写真はトップと同じく拝殿になります。
こちらは拝殿奥にある本殿になります。東照宮は徳川家康を祀った神社であり、家康の生まれた岡崎城の近くにも東照宮を勧請しようと徳川家光の命により1646年に創建されたのが滝山東照宮です。写真の本殿他、拝殿、幣殿、中門、鳥居などが国の重要文化財になっています。ちなみに訪問時に人影は全くありませんでした。
坂道を下って県道まで出ると観音堂があります。よく見ると灯籠に元三大師と彫られていますが、元三大師(良源)は観音様の生まれ変わりともされるそうです。

●鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう)
●鳳来寺(ほうらいじ)

徳川3代将軍、家光が日光東照宮に参拝された折にその縁起に「松平広忠が立派な世継ぎを得たいと思い、奥方とともに鳳来寺にこもり祈願して生まれた子供が家康であった」と書いてあったことに感銘を受け、鳳来寺本堂の修復とともに1651年に創建された鳳来山東照宮は日本三大東照宮の1つともされています。

<住所>
愛知県新城市門谷字鳳来寺
<アクセス>
JR飯田線の本長篠駅からバスで鳳来寺を下車し90分程度の登山となります。バスは日に6本程度しかありませんので注意です。マイカー・レンタカーの方は山頂付近にも有料駐車場があり、こちらは表参道ではありませんが東照宮まで徒歩で10分程度となります。尚、表参道入口の駐車場は無料となっています。
一番遠い駐車場のある鳳来寺バス停あたりから歩き始めます。ここから石段までは約15分の道のりとなります。
道中にある天然記念物の「ねずの木」は、樹齢は推定で1400年以上とのこと。そんな樹齢には思えませんが、これは枯枝を切り詰めたためであり、もともと高さは13mもあったらしいです。
ここから境内入口となるそうで、この先石段が1425段もあるそうです。地元の方は登山目的で来られる方が殆どで、遠方から来られる方は鳳来寺・東照宮の参拝・見学を目的とされているようです。この場合、車の方は鳳来寺山パークウェイを通れば山頂に有料駐車場があります。
鳳来寺山は1500万年前の火山の名残だそうで、標高は695mあります。ここから延々と続く石段地獄の始まりです。目安はここから60分だそうですが、体力に自信があれば30分はかかりません。松尾芭蕉もまた鳳来寺山を登ったそうで、木枯らしに岩吹きとがる杉間かなという句を残しています。しかし、持病が悪化し下山した宿で、夜着一つ祈り出して旅寝かなという句も残しています。
しばらくすると国の重要文化財の仁王門が見えてきました。また長い石段・・・ 芭蕉は断念しましたが私は負けません! 次元が違いますけど。
鳳来寺仁王門は鳳来山東照宮とともに、徳川3代将軍家光の命によって1650年に着工され翌年4代将軍家綱の時に完成しました。仁王門は国の重要文化財にも指定され、江戸時代に作られた両脇の仁王像は新庄市の指定文化財となっています。
仁王門から少しだけ進むと、傘の形をしていることから傘すぎと呼ばれている木があります。樹齢は800年以上らしいです。私は決して登山目的ではないんですが、仁王門とこの傘すぎを見るためだけに登ってきたようなものです。
なんか石段が急になってきました。前にテレビで紹介していたのですが、階段上る時は、お尻に両手を支えるようにすると楽に上れると言ってました。他にも右足を出す時は右手を、左足を出す時は左手を同時に動かすと楽なんだそうです。確かに試してみると少し楽なような気もします。
こちらが源頼朝も厚く信仰したという鳳来寺。又、松平広忠夫妻がこの寺院で祈願して家康が生まれたことを考えると、安産祈願にはもってこいの寺院ですね。
東照宮は鳳来寺から歩いて1分くらいしか離れていません。ただ、最後の石段が・・・
写真トップが鳳来山東照宮で左の写真が奥にある本殿となります。
東照宮からの展望は望めませんが、鳳来寺からは美しい景観が望めます。ちなみにこの左の写真は鳳来寺山の山頂駐車場へ向かう途中で撮影したものです。
同じくこのあたりからは鐘楼の鐘の音が10分間も響き渡ると言われている鏡岩(屏風岩)が綺麗に見えます。まだまだ歩き足りない方は東海自然歩道というハイキングコースもあるそうです。

●博物館明治村
失われていく明治時代の建造物を保存するために集められた明治村。その敷地面積は約100万㎡、東京ドーム約21個分の広さを誇り、明治時代を中心とした建造物が、60以上も保存されています。重要文化財も多く、見学には最低2時間以上は要します。

<住所>
愛知県犬山市内山1
<入村料金>
大人1700円(18歳以上)、シニア1300円(65歳以上)、高校生1000円。乗物一日券付入村券2700円(シニア2300円他)。

<開村時間>
9:30~17:00(季節変動あり)年末年始、不定期に休村。

<アクセス>
名鉄犬山駅から明治村行のバスで約20分(毎時2本程度運行)。マイカーの場合、正門に民間駐車場、北門に直営駐車場有。どちらも有料です。
明治村内は、あまりに敷地が広くて建物も豊富にあるので、有名なところというか、見所ある建物のみ抜粋して紹介していこうと思います。尚、明治村の見学には最低2時間と公式サイトには記載されていますが、私が行った時は、サクサク見学しても、全てを見てまわるには開門から見始めて、閉門時間ギリギリまでかかりました(無駄な撮影多し・・)。
別途料金がかかりますが村内には蒸気機関車、京都市電、村営バスなどが走っています。村営バスはガイド付きの移動となりますので、足の不自由な人にはオススメです。
明治村の端にある1丁目の正門から、北端の5丁目の帝国ホテルまでは歩いて約15分の距離があります(健脚)。公式サイトの説明では約20~30分となっています。SLは5丁目を市電は3~4丁目を走行します。
各車両の路線図はこちらを、細かな全体マップはこちらからDLして下さい。
1丁目:森鴎外・夏目漱石住宅
鴎外は明治23年から1年半ほどこの家に住み、「文づかひ」などの小説を書きました。
漱石は明治36年から約3年半住み、「吾輩は猫である」を書いて文壇でその名を高めました。
ちょっと洒落てますね、実は猫の置物です。。

1丁目:西郷従道邸
明治天皇も来邸したという西郷従道邸。この建物は西郷隆盛の弟、西郷従道が建てた住宅のうち、接客用に設けられた洋館だそうで、国の重要文化財にも指定されています。
従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多かったそうです。
なんか、うっとりする寝室ですね。ちなみに2階部分はガイドさんの案内なしでは見学不可でした。

1丁目:聖ヨハネ教会堂
こちらも重要文化財でもある聖ヨハネ教会堂。現存する明治期のキリスト教教会堂の代表的なものの1つで、重要文化財にもなっております。
この建物の1階部分は日曜学校や幼稚園に、2階はプロテスタントの一派、日本聖公会の教会堂として使用されていたそうです。

1丁目:鉄道局新橋工場
東京の新橋駅構内に建てられた木工場は、国産鉄造建築の初期例でもあるんですって。
内部には昭憲皇太后御料車(5号御料車)と明治天皇御料車(6号御料車)が保存されています。御料車(ごりょうしゃ)とは、天皇、皇后、皇太后、皇太子のための特別列車です。残念ながら車両内部は外からしか見られません。

1丁目:三重県庁舎
重要文化財の三重県庁舎。明治政府が急速に地方行政の整備を進めると、県令はこのような洋風庁舎を新築することが多かったそうです。建物が大きいだけあって、内部の常設展示物も見所が多いです。

2丁目:札幌電話交換局
重要文化財でもある札幌電話交換局。明治36年の官制改正により、電話交換局は郵便電信局に併合され、規模の拡大に伴って明治43年に増築され、その後は札幌中央郵便局として使用されました。
この他、建物内には歴代の電話機も展示されていましたよ。

2丁目:安田銀行会津支店
安田銀行は明治12年に設立された、東北地方へ展開した商業銀行で、会津支店はその6番目の支店だったそうです。
建物内に廻らされたカウンター、その上に溝彫りされた円柱、明るい吹き抜けなど、要所には洋式の手法を取り入れています。

2丁目:京都中井酒造
京都御所近くにあった造り酒屋で、開業当時からの建物が1864年の禁門の変による戦火で焼かれ、その後に再建されたものがこの建物なんだそうです。
店の軒先に酒屋さんが新酒が出来たしるしとして吊るされる杉玉(酒林)は、杉の葉を束ねて玉状にまとめたものです。

中央の鐘馗(しょうき)は、中国の逸話がもとになり魔除け、厄除けの神様とされています。京都では、魔除けとして玄関先の庇(ひさし)に飾られることがあるそうです。

2丁目:東松家住宅
重要文化財でもある東松家住宅は、名古屋の中心部堀川沿いにあった商家です。
1階は見学自由ですが、茶室などがある2階部分は、ガイド案内時間でないと自由に見学することが出来ません。明治村にはこの様に、ガイドさんの案内なしでは見学できない建物がいくつかあります。
明治時代の商家は家族や使用人が多かったため、普段の食事は麦飯に漬物だけの質素なものでした。しかし、お正月や祭礼などのハレの日には季節の材料を使い、その家ならではの、ごちそうが振舞われました。東松家のあった名古屋では、春のお祭りには「ばらずし(ちらしずし)」をよく食べていたそうです。

2丁目:千早赤阪小学校講堂
1階を雨天体操場、2階を講堂として使用していた建物だそうで、現在は常設?なのでしょうか、百年前の立体写真館となっていました。

2丁目:第四高等学校物理科学教室
近代化を進める明治政府は自然科学教育に重きをおき、物理科学の実験ができる教卓を備えた教場を建設しました。
ちなみに、廊下だけではなく教室とかも自由に入れますよ。

2丁目:東山梨郡役所
重要文化財にもなっている東山梨郡役所は、地方行政の整備に伴って改編された東山梨郡の新庁舎でした。左右対称形や正面を廻るベランダは当時の官庁建築の典型な特徴となっています。
愛知県では有名な観光スポットの明治村ですが、全国的には知名度は低いような気がします。なので週末でも観光客は少なめです。村内には食事処の他にも、たませんや、小倉ドック、食道楽のカレーぱん、コロッケなどのB級グルメ的なものも売っていますが、お弁当などの持ち込みも可能ですよ。

3丁目:北里研究所本館・医学館
北里研究所はドイツでロベルト・コッホに師事し、細菌学を研究した北里柴三郎博士が伝染病の研究所として創立しました。このコッホさんと言うのは、コレラや結核菌、ツベルクリンなどを発見した凄いお方です。ちなみに館内では、北里柴三郎博士がペスト菌の病原菌を発見とありますが、正確には同時期に発見したアレクサンドル・イェルサンと言われています。

3丁目:芝川又衛門邸
芝川又衛門邸は、明治29年に開設した甲東農園内に週末を過ごすための別荘として、当時京都高等工芸学校で教鞭を執っていた武田五一の設計により、明治44年に建てられました。
当人は豪商だったそうで、羨ましいくらいに立派な別荘ですね。ちなみに、こちらの別荘、ガイド案内時間でないと内部は見学できませんので注意です。

3丁目:幸田露伴住宅「蝸牛庵」
文豪、幸田露伴(こうだろはん)が多くの作品を著した住宅です。露伴はやどかりのように幾度となく住まいを変えたため、自宅を「かたつむりの家(蝸牛庵:かぎゅうあん)」と呼んでいたそうです。尚、詳しいお話を聞きたい場合は、屋内にガイドさんが待機しています。

3丁目:品川燈台
重要文化財でもある品川燈台は、観音崎、野島崎につぎ明治3年に点燈された洋式燈台です。尚、観音崎、野島崎燈台が関東大震災により倒壊したため、この燈台が現存するわが国最古の洋式燈台なのだそうです。

3丁目:菅島燈台附属官舎
品川燈台のすぐ横にあるのが、これまた重要文化財の菅島(すがしま)燈台附属官舎です。官舎はお雇い外国人のリチャード・H・ブラントン指導のもとで建設されました。
ブラントンは日本に滞在した9年間の間に、菅島灯台をはじめ納沙布岬、尻屋埼、犬吠埼、石廊埼、御前埼、安乗埼、江埼、潮岬、友ヶ島、角島、釣島、鍋島、部埼、佐多岬、樫野埼・・・・ など30基もの主要な灯台を建設しています。

3丁目:長崎居留地二十五番館
長崎の居留地にあったこの外国人住宅は、創建時には三菱差が咲き造船所マネージャーのスコットランド人コルダーが住んでいたそうです。
こんなものまで展示してあると、ついつい写真を撮ってしまい無駄な時間を費やしてしまいます。

3丁目:神戸山手西洋人住居
貿易港として発展していた神戸の街に建てられた神戸山手(こうべやまて)西洋人住居です。創建当初は外国人の住居でしたが、明治29年からは増田周助氏の所有となり、その後に再び外国人の手に渡り、フランス人貿易商フェルナン・ブルム氏が住んだと説明には書いてあるんですが、そんな無名人の説明は必要なのであろうか・・・
別棟の室内が日本間になっています。ちょっと覗いてみたかったのですが、こちらはガイドの案内時間でないと見学不可でした。

4丁目:第四高等学校武術道場「無声堂」
第四高等学校武術道場「無声堂(むせいどう)」は、柔道、剣道、弓道の3つの道場からなり、明治村でありながらも、建物は大正時代6年に建てられたものとなっています。
こちらは、なぜだか落ち着く弓道場です。
こちらの道場、かなり近代的で?柔道場の床の弾力を高めるため、床下にスプリングが入っています。なので、恐ろしいことに、上下に体を揺すると建物全体がガタガタと音を立て、震度4程度の揺れが発生します・・・

4丁目:日本赤十字社中央病院病棟
日本赤十字社中央病院病棟は明治10年、西南戦争が始まった時に敵味方の区別なく負傷者を救護するために設立された博愛社を前身とします。
この病院は、我が国が明治19年に万国赤十字条約に加盟した際、皇室から賜った御料地に建てられた大規模病院です。
西洋の病院にならった分棟式の建物。
食品サンプルって何故だか撮影心をくすぐられませんか?ちなみに写真は明治時代の病院の食事、夕食バージョン。

4丁目:歩兵第六聯隊兵舎
歩兵第六聯隊(ほへいだいろくれんたい)は、名古屋に置かれていた東京鎮台第三分営という軍隊が、明治6年に名古屋鎮台に降格した時に新しく編成された部隊です。
明治村へ移築されたのは第10中隊で、当時の日本陸軍はフランスの軍事組織や訓練方法を手本にして編成し、兵舎等もフランスの建築書をもとにして造られたそうです。
窓からの日差しが美しくパシャリ。
そして、またもや食品サンプルにシャッターを・・・
ついでに明治時代の軍隊の食事、夕飯バージョンも・・・

4丁目:名古屋衛戍病院
明治6年に設立された陸軍病院であった名古屋衛戍(えいじゅ)病院は、分棟式という洋式大病院の典型的形式を取っており、6棟の病棟が管理診療棟と渡り廊下で結ばれていました。
大正7年に開発された高性能の医療用X線装置、ダイアナ号。いわゆるレントゲンですね。電極らしきものがむき出しになってるのが、当時の患者さんとしてはとても怖かったでしょうね。

4丁目:シアトル日系福音教会
この建物はシアトルの新興住宅地に建てられたアメリカ人の住まいだったそうです。その後に日系移民の住居となり、第二次世界大戦後には日系一世が、礼拝や移住当時の苦難を語り合う福音(ふくいん)教会として使用されました。
1941年12月8日(ハワイ時間で7日)、日本の真珠湾攻撃により、その24時間後には日系一世の貯金が凍結され、FBIは疑わしい適性外国人として日系人約1500人を拘束し、その中には、この家に住んでいた安武嘉一郎氏も含まれていました。
上の写真の窓奥に見えるのが、この人工のため池、入鹿池(いるかいけ)です。池に小さくポツポツと浮かんでいるのは、ワカサギ釣りを楽しんでいるボートです。

近くには、ブラジル移民住宅やハワイ移民集会所など、この福音教会のような地味な建物や、日本初の複線用鉄橋、六郷川鉄橋やSL(尾西鉄道蒸気機関車1号)もありますが、キリがないので割愛します。

4丁目:鉄道寮新橋工場・機械館
鉄道寮新橋工場は日本で初めて鉄道が走った新橋-横浜間の起点、新橋停車場に機関車修復所として建てられました。
その後、規模が拡張され、大正4年には大井町へ移転し、用品倉庫として昭和42年まで使用されたそうです。

内部には日本の近代化の過程で使われた多数の機械が展示されています。
明治村には建築物以外にも重要文化財があります。その1つが、興味がない人にとっては地味な重要文化財、菊花御紋章付削盤。工作物の平面を切削する工作機械らしい・・・
もう1つがこのリング精紡機。こちらも同じく重文です。説明によれば、練紡機より供給された粗糸をドラフトして所要の太さにしたのち、撚りをかけて完成した糸をボビンに巻き取る・・・なんのこっちゃ?ですね。つまり、天然繊維を撚って糸にするのが紡績機、さらに撚りと巻き取りを同時に行うことが出来るのが、このリング精紡機。たぶん・・・

4丁目:宇治山田郵便局
宇治山田(うじやまだ)郵便局の歴史は、明治5年に山田(伊勢市)に郵便役所が設けられ、同8年には郵便局として改名し、局長の交替や電信事務の導入などに伴い局舎は移転を重ね、明治42年にこの庁舎が伊勢神宮外宮前の神域正面角地に新築されたそうです。
時代ごとの数々の郵便ポストが展示されています。

4丁目:呉服座
呉服座(くれはざ)は地域の芝居小屋であり、当初は戎神社付近(池田市)にあったところから戎座(えびすざ)という名であったそうです。
地方巡業の歌舞伎や壮士芝居が行われ民衆娯楽の場として親しまれただけではなく、時には政治演説会場としても使用されたそうです。ガイドさんの案内により奈落の見学も可能です。他、呉服座の並びには足湯のできる半田東湯や駄菓子も売ってる小泉八雲避暑の家とかもあります。

5丁目:聖ザビエル天主堂
聖ザビエル天主堂は16世紀に来日し、日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルを記念して建設されたカトリックの教会堂です。
丘の上にある「菊の世酒蔵」あたりから見た天主堂は、まるでヨーロッパにでも来たかのような錯覚に陥ります。
幾つかある明治村の教会堂の中では、一番内装が美しいところだと思います。
ステンドグラスは色ガラスに白色塗料で草花模様を描き、その外側に透明ガラスを重ねて保護している点が特徴なのだそうです。

5丁目:金沢監獄正門
明治40年に建設された金沢監獄の正門は、煉瓦と石で造られた重厚感のあるデザインで、監獄の門という特殊な用途のため、外側と内側の装飾の差が著しくなっています。

5丁目:前橋監獄雑居房
この建物は看守所を中心にして十字放射型に配された監房棟の一部分です。
雑居房は江戸時代の牢獄の形式に近く、一室に多人数収容していました。排便施設も取り込まれているため衛生面を重視して吹きさらしにされています。

5丁目:金沢監獄中央看守所・監房
金沢監獄は明治5年に制定の「監獄則並図式(かんごくそくならびずしき)」沿って造られた監獄です。
中央に置かれている看視室は網走監獄で使用されたものです。
手紙を書いている囚人。
内部は八角形の看守所を中心に、5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置となっています。
ご飯を食べている囚人。何故だか微笑ましい。
布団を敷いている囚人。・・・なんか、いい人そうに見えますな。いやいや外見で判断しちゃ駄目ですね。

5丁目:川崎銀行本店
この建物は、東京日本橋にあった川崎銀行本店の正門左角の外壁部分を復原したものとなっています。川崎銀行は江戸時代、水戸藩の勘定方を務めた川崎八右衛門が明治13年に設立した銀行で、明治中頃には有力銀行の一つに数えられていたそうです。ただ、この建物自体は昭和2年に建設されたものです。明治村なのにね(笑)
上まで苦労して上がってみると、そこそこ見晴らしがいいです。ちなみになんですが、明治村はとても広いので、ここに写っているのは5丁目の一部分に過ぎません。

5丁目:内閣文庫
この建物は明治政府が中央図書館として建てた内閣文庫庁舎の主家部分です。江戸幕府から引き継いだ古文書に加え、各地の古文書や海外の書籍が買い足され、蔵書の内容は充実していたらしいです。設計者は後に国会議事堂の建設を指揮することになった大熊喜邦。

5丁目:宮津裁判所法廷
この建物は、地方裁判所の刑事法廷棟です。裁判所全体は左右対称の厳格な構えのH型で、その右翼部が明治村に移築されました。
廷内は明治の刑事法廷での裁判風景を、人形を用いて展示しているそうです。現代との相違点は法廷内は下段と下段に分かれていて、高い壇上には判事と検事、書記が座を占め、弁護士と被告人席は下段に置かれ、検事と弁護士は同等な立場ではなかったというところです。

5丁目:帝国ホテル中央玄関
帝国ホテルはアメリカ合衆国の著名な建築家フランク・ロイド・ライトが設計した国際的な一流ホテルです。当時は、あの有名なチャールズ・チャップリンや、マリリン・モンローも新婚旅行中に泊まったことのある格式あるホテルでした。
建物内外は幾何学模様に彫刻された大谷石や櫛目を入れた煉瓦で装飾されています。ちなみに明治村・・・ですが、こちらは大正時代の建築物です。
ビリヤードのテーブルでしょうか?いえいえ、こちらは日露戦争を終結させるため、明治38年に米国ニューハンプシャー州ポーツマスの海軍工廠内で、日露講和会議が開かれた時の会議場に置かれていた大テーブルです。
ポーツマス条約調印のテーブルがこんな所にあるなんて、ちょっと驚きです。
まだまだ紹介してない建物も多いのですが、キリがないのでこのへんで・・・



愛知県の観光