●大塚国際美術館 (おおつかこくさいびじゅつかん )
大塚国際美術館は、大塚製薬創立75周年記念事業として設立された陶板名画美術館です。世界26ヶ国、190余の美術館が所蔵する現代絵画まで至宝の西洋名画1000余点を特殊技術によりオリジナル作品と同じ大きさに複製。美術書や教科書と違い、原画が持つ本来の美術的価値を真に味わうことができ、日本に居ながらにして世界の美術館が体験できます。

<住所>
徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内
<開館時間>
9:30~17:00 休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)他、公式カレンダー参照。
入館料金3240円(前売券りがお得です)

<アクセス>
徳島空港からはバスで約30分(徳島駅からは約60分)、大塚国際美術館前を下車です。マイカーやレンタカーの場合は、近くの美術館駐車場からシャトルバス(無料)が頻繁に往復しています。見学時間が最低でも1時間はかかりますので、時間に余裕をもっておいた方が良いでしょう。おそらく通常でも3~4時間、私の場合は写真撮影が多かったこともあり、5時間程度でもかかっています。それでも全く足りない感じですけど...
入館すると目の前に長いエスカレータがあって、そこから展示室へと向かいます。大塚国際美術館は山の中に造られていて、正面入口からエスカレーターを上ったB3Fから2Fへと順路が続きます。ちなみにB3Fが中世・古代、B2Fがバロック・ルネサンス、B1Fが近代・バロック、1Fと2Fがテーマ展示・現代となっています。
展示室に入って最初に目にするのが、大塚国際美術館の中でも一番の見所とも呼べるシスティーナ・ホール(システィーナ礼拝堂)。ローマ教皇ユリウス2世は、バチカン宮殿を大規模にルネサンス化するために、多くの芸術家をローマに呼び寄せました。何らかの理由で教皇は彫刻家であったミケランジェロにフレスコの天井画の制作を命じました。ここには、旧約聖書の「創世記」にある「天地創造」から「ノアの洪水」までの人類の初期の歴史を中心に複雑な図式が展開し、キリスト教の世界観が描かれています。祭壇壁画には、教皇パウルス3世の命による巨大な「最後の審判」が描かれています。
見学時間は止まらずに鑑賞したとしても1時間はかかると思います。なにせ、鑑賞ルートは約4kmもあるのですから... 大塚国際美術館が他の美術館と違って素晴らしいところは、複製品であるとは言え、全てが写真撮影可能であるというところです(ストロボ、フラッシュ、三脚等は禁止)。ただ、細かく注意を見ると作品のみの撮影利用は禁止と書いてあります。ちょっと謎...
聖マルタン聖堂。壁画だけではなく聖堂そのものまで再現されています。
聖二コラオルファノス聖堂。こちらも壁画だけではなく聖堂そのものまで再現されています。
礼拝堂だってシスティーナ礼拝堂だけではありません。こちらは北イタリアにある1303年に建てられたスクロヴェー二礼拝堂。中世にはなかった自然主義的態度、絵画の写実性が読み取れ、すべての画面に見られる濃い空色はこの礼拝堂壁画の特色ですね。ちんぷんかんぷんで本人、よく分ってませんけど...
トルコのカッパドギアにある聖テオドール聖堂の壁画。名画の他にも紹介しきれないくらいの壁画や聖堂などの建造物が再現されたものがあります。
館内で鑑賞している世界の名画は、原画に忠実な色彩・大きさで特殊技術によって陶板に再現されています。その素晴らしい完成度に見とれてしまいますが、半分程度進んだところで、あちらこちらから聞こえてくるのが疲れただの、どれ見ても一緒だなといった声です。パッと見、素人にはどの絵画を見ても大抵は作者も作品名も分からないものばかりなので、親切に説明文が1つ1つ書いてあります。なので、いちいち読んでいると莫大な時間を消費します。
皆さん、あまりの鑑賞疲労で中盤~後半のモナリザとかムンクの叫びなんて、もう流し見ですよ。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐(修復前と修復後)は絵自体が大きいので人目を引いていましたが、ミレーの落ち穂拾いなんて、偶然発見!みたいな感じだし。さらに後半のピカソのコーナーにたどり着くころには、流し見どころか多くの人が素通り状態でした...
モネの大睡蓮。休憩にはもってこいです。さすがにここまで来ると、もう歩き疲れました。途中、かなり高齢なおばあちゃんが、これシャガールじゃない?絵が柔らかいから、すぐ分かるのと言ってましたけど、そんな程度でも僅かな知識があったら1日じゃ鑑賞足りないと思います。
ここではお茶休憩も出来ますし、他にも食堂や喫茶室みたいな場所もありますので一日中いられます。
後半のゴッホのヒマワリコーナーはさすが大人気。みなさん、お疲れながらも鑑賞というか、写真撮影に最後の力を振り絞っています。
とにかく想定外に大きい美術館でした。一日潰れる覚悟で予定を組んでいましたが、まさかここまでとは... 

●丈六寺(じょうろくじ)
寺伝によれば、1466年に細川成之が高僧であった金岡用兼を迎えて中興開基し、その後に蜂須賀家によって寺院を整備されたそうです。観音堂に安置されている聖観音坐像と、恐ろしい血天井が見所です・・

<住所>
徳島県徳島市丈六町丈領32
<アクセス>
JR徳島駅よりバスで五滝、又は八多行きで約25分360円、丈六北バス停を下車です。尚、境内は自由です。
こちらは一の門で奥に二の門が見えます。そして二の門のさらに奥に、重文の三の門(三門・山門)があります。文化財を多く保有する丈六寺は、阿波の法隆寺とも呼ばれているそうです。誰が呼んでいるのかは知りませんが・・・
室町時代末期の16世紀に建立された三門は国の重要文化財にも指定され、県下最古且つ優美で県を代表する建築文化財とのこと。

写真トップが重要文化財にも指定されている本堂で、1629年に蜂須賀家政が娘の辰(松平忠光の妻)の供養のため、方丈(住職の居室)を再建寄進したもの。明治以後に本尊の釈迦如来を安置したため本堂と呼ばれるようになったそうです。
写真は徳雲院で、細川持隆が寄進した瑠璃殿を子である細川真之が1563年に改築し自身の法名である徳雲院に改称したとのこと。益田豊後事件に絡み正保三年に、益田豊後の弟とその子三人が、ここで切腹させられたとのこと。
この徳雲院の天井板は血天井とも呼ばれ、とある事件の縁板を再利用したものなんだそうです。
ぬぬっ、中央に手形のような跡が見えます。土佐統一を果たした戦国大名の長宗我部元親は、四国平定というさらなる野望を抱き、阿波へと攻め入ります。しかし、那賀郡の富岡まで迫ってきた際に、牛岐城(富岡城)の城主、新開遠江守忠之(新開実綱)の激しい抵抗によって攻めあぐねます。そこで元親は一計を案じ新開側に、四国平定した後には勝浦郡を与え、富岡城を保証するという好条件の和議を申し入れます。
その後、和談成立の祝いと懇親を兼ねた酒宴は開かれますが、夕刻、宴を辞して帰ろうと忠之が縁側に出たところを、曲り角の襖の片側に身を隠していた武士が抜刀して忠之の肩口に切りつけ、床下に隠れていた武装した人々も躍り出たそうです。多勢に無勢で忠之を含め新開側は全員殺されてしまいました。
この時の手形や足形の血痕は、拭けども消えず、洗えども落ちず、後にこの縁板は徳雲院の天井板として用いられたそうです。わざわざ天井板に使わなくてもいいような・・・・
こちらは重要文化財の経蔵です。もとは室町時代末期(1568年)に細川真之が、修行僧が座禅の修行をする僧堂として寄進建立されたものだそうです。
続いての観音堂も国の重要文化財に指定されています。こちらも1567年に細川真之が寄進建立したもので、堂内には座高3.1mもある平安時代末期の聖観音坐像が安置されています。この菩薩様は立像にすれば1丈6尺(約4.8m)にもなることから、丈六仏と呼ばれ寺名の由来となっています。
丈六寺の開基である細川成之(1511没)と、右が細川真之の墓(1582没)だそうです。すいません、正直どれがどれだかさっぱりわかりません・・・
宍草治之の墓だそうです。これまた一体誰??? 検索してみても誰もヒットしませんでした。恐らくは徳島藩で働いていた人なのでしょう。知らんけど・・・ 他にも細川持隆とか蜂須賀家重臣の墓とかあるらしい。

●箸蔵寺(はしくらじ)
寺伝によれば、828年に空海(弘法大師)が霊気によって箸蔵山へと導かれたそうです。山頂にて金毘羅大権現が現れ「箸を挙(あ)ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げを授かり、金毘羅大権現の像を刻まれ、これを本尊として伽藍を建立し当山を開創したそうです。

<住所>
徳島県三好市池田町州津蔵谷1006
<アクセス>
JR箸蔵駅より徒歩約5分の場所に箸蔵山ロープウェイがあります。境内は自由ですが、ロープウェイ往復1500円かかります(15分間隔AM8:00~、冬季は9:00~年中無休)。仁王門からも徒歩で参拝できますが、その際は段が500段ほどありますのでご注意くださいとのこと。ちなみに仁王門まで徒歩で行くのは現実的には厳しい距離(約2kmの登山)があります。
私の場合、ロープウェイの運行開始前に到着してしまったので、車で仁王門まで行きましたが、駐車スペースが2~3台程度しかなく、道も悪路なのでオススメできません。で、写真が仁王門です。箸蔵寺の本来のこの山門(仁王門)は明治13年に建てられたそうです。
境内マップです。ロープウェイ利用時は、この仁王門を見るためには、長い階段を下りていかなければなりません・・・
箸蔵寺の本尊である金毘羅大権現は神仏習合の神として祀られているように、寺院というよりは神社のような立派な参道です。
讃岐の金刀比羅宮(こんぴらさん)の祭りで使われた箸を、箸蔵山にすむ天狗様が当山に運び納めたという伝説があり、箸蔵寺は金刀比羅宮奥の院の名でも知られているらしいです。
石段を頑張って上って一息つくと、さらなる石段が・・・ さすがは石段の多さで有名な金刀比羅宮の奥の院と称するだけあります。
石段を上りきり、ロープウェイ乗り場の方へと左に進むと、庫裏や宿坊、納経所、書院、離座敷などを備えた重要文化財の方丈(ほうじょう:本坊)があります。
再び来た道を戻り本堂へ向います。こちらは毎朝毎晩、護摩祈祷が行われているという護摩(ごま)殿です。こちらも国の重要文化財となっていて、彫刻も多く見応えがあります。
すぐ脇には四国三十三観音霊場第二十八番のボケ封じ観音があります。観音様の足元には、お年寄りの皆様によってお祀りされたという、おじいさん像と、おばあさん像が仲睦まじく寄り添っています。
こちらは江戸時代末期から明治初頭に建立されたという鐘楼堂。鐘を自由に撞くことができます。え?いいんですよね撞いても・・・
さてさて、いよいよ本堂へ。え!? さすが金刀比羅宮の奥の院と呼ばれるだけあります。金毘羅大権現様は海上の守り神としても有名で、広い海原を監視するのには、やはり高い場所が好都合なのでしょう・・
長い石段の途中には何気に重文の薬師堂が建ってたりします。祈祷札から1861直前の建立といわれているそうです。
薬師堂の逆手側には学問の神様として有名な菅原道真を祀った天神社本殿があります。ものすごく小さな社なのですが、これも重要文化財(江戸末期)なのですから箸蔵寺恐るべしです。
石段を上りきってようやく写真トップにある本殿(国指定重要文化財)です。護摩殿と同じく彫刻の素晴らしさには見とれてしまいます。外陣、内陣、奥殿が連なった大きな社殿は仏教と神道が一体となった神仏習合の時代の様相を色濃く残しています。尚、本尊の金毘羅大権現は秘仏です。

左の写真は観音堂で江戸初期に建てられたそうで、箸蔵寺でも最も古い建築物だそうです。国・・いえ、こちらは県指定有形文化財です。え?
最後は平成元年に建立されたという御影堂です。開基の弘法大師空海の御影を祀っています。

●大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)
おおあささんとの呼び名でも親しまれ、徳島県の総鎮守として県下一の格式を誇る大麻比古神社。祭神には農業・産業の守り神とされる大麻比古大神(古語拾遺では天太玉命)と、いつの頃からか合祀されたという猿田彦命との二柱を祀っています。毎年の初詣の参拝者数は県内で断トツの一位だそうです。

<住所>
徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13
<拝観時間>
6:00~17:00 境内自由。

<アクセス>
マイカーやレンタカーなどの車以外でのアクセスは悪く、JR高徳線の板東駅から徒歩30~40分(登り坂)です。バス鳴門大麻線で道中のドイツ館まで移動してから徒歩という方法もありますが、運行本数自体が少ないです。他、四国八十八ヶ所1番札所の霊山寺も道中にあります。
祓川橋の先に見える鳥居。実はかなり後方に大鳥居があるのですが、車で来ると見落とすというか何というかアレです...
神馬です。その昔、神社に祈願する際に奉納された馬の名残です。絵馬も同じ意。
思わず、いや~!と見上げてしまう立派な楠。樹齢千年余の御神木の楠は鳴門市指定の天然記念物だそうです。
トップの写真が拝殿になります。本殿は裏手にあります。さすが阿波国一宮、格式の高さをうかがえる、菊の御紋(皇室の菊花紋:十六八重表菊)が拝殿に掲げられていました。平安時代よりその名が残る大麻比古神社は、朝廷の崇敬厚く、代々の国司領主の尊崇も深く、明治13年には国費で本殿以下の造営が行われたそうです。尚、現在の本殿や拝殿は崇敬者の寄進によって昭和45年に造営されたものだそうです。
この先にめがね橋があるとのことで拝殿裏にまわると、末社の豊受社や山神社、中宮社などが祀ってありました。
お、こんなところにめがね橋。めがね橋と言えば、個人的には長崎に行った時の眼鏡橋が思い出されます。この池は心願の鏡池と呼ぶそうです。第一次世界大戦さなか、中国の青島で捕虜になったドイツ兵士約1000人が、大正6年から9年にかけて板東俘虜収容所で過ごしました。ドイツ兵士達が遠い祖国に偲びながらも一日も早く故国に帰れることを願いつつ、境内に池を掘ってめがね橋を架けたそうです。
なんか知らんけど美しい!池底の手前と奥のコントラストがなんともいい感じですねぇ。めがね橋はこの先にあるドイツ橋とともに現存する橋で、完成はドイツ橋よりも少し前の大正8年4月とのことです。
ドイツ橋へと向かいます。正直、ここへくるまでは、ドイツ兵が捕虜になった話やドイツ橋もめがね橋も知らなかったので、どこまで歩かされるか不安...
と思ったら歩いて直ぐでした。こちらがドイツ橋。第1次世界大戦の際に、中国の青島で捕虜となったドイツ兵953人が、大正6年から9年までの間、板東捕虜収容所に収容されていました。この間地元住民との間に“国境を越えた人間愛と友情”がめばえ、高い水準のドイツ文化が伝えられました。バターやチーズの製法。博覧会の開催。楽団による演奏会等地元の発展に大きく貢献しました。帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし、近くで採れる和泉砂岩を使ってドイツ橋が造られました。
さあ帰ろうと思ったら謎の石段。丸山社と丸山稲荷社が約30メートルとの案内があります。どんなものか思わず見に行きたくなる悪い衝動です。
末社の丸山稲荷社。全国どこでも、お稲荷さんは朱色の鳥居で分かりやすいですね。
その反対側には丸山神社があります。来るんじゃなかったという残念さと、境内を隅々まで見てまわったという達成感が入り混じります。
めがね橋の近くに石畳の美しい道がありました。この先、奥宮が鎮座する大麻山へと続くのでしょうか?さすがに引き返しましたが(^^;

●板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)
第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵の収容所、板東俘虜収容所。その跡地に造られたドイツ村公園内には慰霊碑の他、当時の兵舎跡や給水塔跡、製パン所跡などが当時の面影を残しています。

<住所>
徳島県鳴門市大麻町桧
<アクセス>
JR高徳線の板東駅から徒歩約20分です。札所巡りされる方は、1番札所の霊山寺と2番札所の極楽寺のの、ちょうど中間地点にあります。運行本数は少ないですが、タイミングさえ合えばドイツ館までのバスも便利です。
第1次世界大戦の際に、中国の青島で捕虜となったドイツ兵約1000人が、大正6年から9年までの間、板東捕虜収容所に収容されていました。この収容所では捕虜を人道的に扱ったことから、地元民との交流も深まり、バターやチーズの製法、博覧会の開催など高い水準のドイツ文化が伝えられました。写真は収容所跡にある給水施設跡。
他にも楽団による演奏会なども行われ、ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、ここ板東収容所だったそうです。写真は第2給水施設跡。
第2給水施設跡の奥に建つ、わびさびを感じる給水塔。すぐ後ろには製パン所跡がありました。捕虜たちによってドイツパンやドイツ菓子などの技術も広がったのですが、洋菓子メーカーとして有名なユーハイムや、ロースハムを日本に広めたローマイヤーもまた、第1次世界大戦中に日本へ連行された元捕虜だったそうです。
奥には池というか貯水池みたいな場所がありました。なんか緑緑していて、ばっちい感じです。ちなみにこの辺りはドイツ公園の一部なんだそうです。時間的に寄れませんでしたが、少し離れますが近くに板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵たちの活動の様子や、地域の人々との交流の様子を展示したドイツ館があります。
こちらは収容所で亡くなったドイツ兵の慰霊碑。写真トップはすぐ隣にあるドイツ兵合同慰霊碑で、福岡、熊本、久留米、松山・・などの地名が刻まれていることから、他の場所で亡くなったドイツ兵も合祀されているようです。
いくつかの兵舎跡や、めがね橋もありました。周辺は観光客は皆無で、近所の人が散歩している程度です。のどかな普通の公園の中なのに、そこには遺構があってと、とても不思議な感じでした。

●阿波十郎兵衛屋敷(あわじゅうろうべえやしき)
人形浄瑠璃、傾城阿波鳴門のモデルとして知られる板東十郎兵衛の屋敷跡。人形浄瑠璃で使われる人形や関連資料などが展示されています。

<住所>
徳島県徳島市川内町宮島本浦184
<開館時間>
9:30~17:00(ただし、7月1日~8月31日は18:00まで)、400円。定期上演が日に2回程度あり。年末年始休館。

<アクセス>
JR徳島駅からバス(川内循環線)で約30分、十郎兵衛屋敷を下車。
お弓・お鶴 別れの銅像
『阿波十郎兵衛夫婦は、名刀「国次」をさがす為、大阪、玉造に隠れ住んでいた。ある日、巡礼姿で、はるばる尋ねてきた娘に国はいずこと尋ねれば、阿波の十郎兵衛、母さんはお弓と申します。聞いてびっくり、さては我が子か、なつかしやと名乗りあげたい胸の内、なれど悲しい隠れの身、可愛い我が子まで罪を負わせたくない母親の情愛、すごすごと立ち去る後姿に、もう一度顔を引き寄せ、涙する哀情切々たる情景である』
近松半二作 傾城阿波の鳴門より
義太夫節の浄瑠璃と太棹の三味線、三人遣いの人形の三者で演じられる阿波人形浄瑠璃は、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
木偶人形の頭には、目を閉じたり、眉毛が上下したり、口が開くなどの仕掛けが施されています。中には内部の糸を引っ張ると若く美しい女性の顔から一瞬で口が裂け、目玉がひっくり返って、頭からは角がはえた鬼の姿に変身するカブと呼ばれるものまであります。



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