美しい珊瑚礁やマングローブ林などの自然豊かな地域であり、観光地としても人気の高い沖縄県。首里城や美ら海水族館などの観光スポットは勿論、ひめゆりの塔や旧海軍司令部壕といった戦跡も沖縄の歴史を知る上で是非とも立ち寄ってほしい場所です。チャンプルーに沖縄そば、ソーキそば、山羊汁、じーまみー豆腐、ゆし豆腐、島らっきょう、海ぶどう、へちま、タコライス、てびち汁、ラフテー(角煮)、てびち(豚足)、ミミガー(豚耳)、イラブチャー(アオブダイ)、ジューシー、サーターアンダーギー、シークァーサー、さとうきびジュース、泡盛などの食べ歩き、飲み歩きも楽しい!

<お土産>
定番中の定番、ちんすこう、紅芋タルトをはじめ、塩せんべい、シークヮーサー、黒糖菓子、島らっきょう、海ぶどう、泡盛など豊富です。
沖縄県のお土産
沖縄県の中心繁華街となるのが国際通り周辺となります。那覇空港からはレンタカー又は、ゆいレール(モノレール)で牧志(まきし)駅か県庁前駅を下車です。空港から約15分(230〜260円)です。尚、国際通りは全長約1.6kmありますが楽々歩ける距離ですよ。お車でお越しの場合、コインパーキングは数多くありますが日曜日はトランジットモール(歩行者専用道路)となり混雑しますので注意です。又、レンタカーで平日に市内を走行される方は朝、夕にバスレーン規制がありますので注意です。ちなみに沖縄県は車社会でありながら朝夕の渋滞は激しく、場所によってはピクリとも車が動かない場所も・・・
沖縄県のメインストリートとなる国際通りですが、実際に歩いている人の大半が観光客です。土産物屋さんが異様に多く存在しますが、沖縄の郷土料理を味わえる飲食店も数多くあります。歓楽街は少し離れた美栄橋(みえばし)駅から西に位置する松山周辺となり夜は地元民が数多く集まります。但し、治安も多少悪いため観光客は昼も夜も国際通り周辺で十分でしょう。
国際通りにはアーケードになった通りが幾つか存在し、こちらも多くの土産物屋を中心に活気があります。
国際通りの中間(牧志駅の方が近い)に位置する市場中央通りを奥まで歩けば有名な第一牧志公設市場があります。
沖縄の名産品以外にも豚の顔やカラフルな色の魚など怪しい食材が多く売られています。
市場の2階は食堂になっており、1階で購入した食材を調理してもらうことも可能です(別途調理代)。尚、市場と言っても時間は8:30からですので注意です。

グルクン唐揚げ・・・魚の唐揚げ(カサゴの唐揚げみたいな味)
山羊汁・・・生臭さ満点で要注意。
米軍の住宅地区の跡地(返還後に再開発)となる、おもろまち駅周辺もショッピングセンターや飲食店も増えてきて活気があります。

又、少し離れますが嘉手納基地やキャンプハンセンなどの基地前にも多少の繁華街・歓楽街が広がります。写真は嘉手納基地へと続くコザのゲート通り。沖縄の天ぷらも衣が大きく名物なのですが、通りにある上間てんぷら店は安くて小腹が減った時にはお薦めです。大きなチキンの天ぷら150円は驚きの価格!

●首里城(しゅりじょう)
1429年に成立し1879年に日本政府によって国王尚泰(しょうたい)が首里城から追放されるまで続いた琉球王国。琉球王国を象徴する首里城は中国の支配下にあった影響から漆で朱塗りされた建物が特徴です。歴史上、幾度も焼失し、沖縄戦では完全に破壊されてしまい今も残る遺構は殆どありませんが、数少ない今も残る遺構などは琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産にも登録されています。

<住所>
沖縄県那覇市首里金城町
<開館時間>
8:30〜18:00頃まで季節変動有り 800円。

<アクセス>
国際通りのある牧志駅からは、ゆいレールで首里駅まで約10分、230円です。大きな県営駐車場もあります(有料)。
首里城の城郭内に入る第一の正門、歓会門(かんかいもん)。昭和49年に復元されたもので、門の両側にある獅子像「シーサー」は魔除けの意味を持っています。このシーサー、街を離れると家の門や屋根に可愛らしく乗っかっているのを多く目にします。
i石段は馬が歩きやすいように造られています。石段途中の右手に泉があり、龍の口から水が湧き出ていることから龍樋(りゅうひ)と呼ばれています。戦災にて平成4年に復元された写真の瑞泉門(ずいせんもん)は、この龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたい泉の意味)と讃えられたことに由来して名付けられています。
中国語で水時計を意味する漏刻門(ろうこくもん)。この門の櫓の中に水で時間を計る水槽(水時計)が設置されていたそうです。こちらも戦災により平成4年に復元されたもの。門を抜けた正面には日時計があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時をしらせたそうです。

別名「かご居せ御門」ともいわれ、駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表しこの門で駕籠から下りたことからそのように呼ばれたそうです。
こちらは広福門(こうふくもん)。広福とは福を行く渡らせるという意味があるそうで、建物そのものが門の機能を持っているのが特徴です。創建年は不明で、明治末期頃に撤去され平成4年に復元されたものです。
神をうやまうという意味を持つ奉神門(ほうしんもん)。3つの入口のうち中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)などの身分の高い人だけが通ることができたそうです。これまた平成4年に復元されたものです。

ここまでは無料でここから先が有料エリアとなります。他にも首里城公園内には無料で見られる建造物は数多く、二千円札の表面にも登場する守礼門(しゅれいもん)や世界遺産にも登録されている園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)など見所満載です。
有料エリアは写真トップにある正殿の右手にある南殿・番所(なんでん・ばんどころ)⇒正殿⇒正殿の左手にある北殿と続いていきます。写真トップのの首里城の正殿は左部分が漆の塗り直し作業の途中です。この工程には全部で26回もの漆の上塗り作業が行われるそうですよ。

尚、南殿・番所、書院は一部に展示品の著作権上の理由から撮影禁止となっています。
正殿は「百浦添御殿」と呼ばれ、首里城の中心的な施設です。正殿は奉神門から見て斜めの角度で建てられています。正殿正面方向は中国を向き、奉神門は神が造られた聖地であるとされる礼拝所、首里森御嶽を向いているのが特徴です。建物は3階建で、1階(下庫理:しちゃぐい)は国王みずから政治や儀式を執り行う場所、2階(大庫理:うふぐい)は国王や親族、神女たちが儀式などを行う場所、3階は通風を目的とした屋根裏部屋(非公開)であったそうです。
正殿は創建以来、戦火・失火により四度の焼失と再建をくり返しています。この石積みは、焼失・再建を繰り返した首里城正殿の遺構です。首里城は琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されていますが、殆どの建造物は戦災などによって復元されたものであり、正確に言えば世界遺産となっているのは首里城ではなく首里城跡(遺構)になります。
正殿は国王が出御する城内の中心的な建物で、1階は行政を2階は祭祀の領域に属していました。正殿の右手には節句などの日本式の行事を行ったり薩摩藩の役人を接待していた南殿、城内への取次を行う表玄関の役割を持った番所、国王が日常の政務を行う書院があります。正殿左手にある北殿は王府の高官たちが重要案件を評議する場で、行政の中心的な施設であったそうです。
沖縄戦によって多くの建造物は破壊されてしまいましたが、当時の石垣も残っています。写真の上半分が復元された石積みで、下半分が遺構となる石積みです。
こちらは尚真王が父王尚円を祀るため、1492年から3年がかりで建立したと伝わる円覚寺跡。円覚寺は琉球における臨済宗の総本山で第二尚氏王統の菩提寺であり琉球随一の寺院であったそうです。戦前は国宝であった円覚寺も戦災により破壊され、総門は昭和43年に復元。放生橋(重要文化財)は昭和42年に修復されています。
首里城及び、その周辺(首里城公園)は見所が多くあります。お城とはちょっとかけ離れたところでは日本軍が使用していた無線通信所跡などの建造物もあったりします。
さらに周辺には世界遺産に登録された建造物が2つも存在します。写真は守礼門近くにある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。もともとは1519年に建てられたそうですが、一部破損し復元されています。ここは国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所らしいです。
守礼門からさらに先(首里城とは反対方向)へ進めば、同じく世界遺産の玉陵(たまうどぅん)があります。琉球王国の第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓だそうです。沖縄戦での被害のため、こちらも完全な形ではなく、だいぶ復元されたものらしいです。
ちなみに現在、沖縄県で世界遺産に登録されているものは首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、今帰仁城跡、勝連城跡、座喜味城跡、 中城城跡、斎場御嶽と全部で9ヶ所もあります。首里城以外、あまり知られた場所ではありませんが、興味又は時間のある方は行ってみましょう!

●ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなった女師・沖縄県立第一高等女学校の教師・学徒の慰霊碑。写真のガマ(自然洞窟)は沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍病院第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所で、1945年6月19日朝の米軍の攻撃によってガマに入っていた96名中81名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなりました。

<住所>
沖縄県糸満市伊原671-1
<アクセス>
沖縄の観光にはレンタカーが断然お薦めです。特に南部の観光地は「わ」ナンバーのレンタカーを多く見かけます。レンタカー以外の方法としては添乗員付きのツアー、路線バス、定期観光バス、遠泳、タクシー、そして観光タクシーとなりますが、観光タクシーは5時間の利用でも1万円程度とお薦めです。目安として南部観光では約5時間、美ら海水族館方面で約8時間(2万円程度)となります。その都度タクシーを拾う際には、有名どころの観光地にはタクシーが待機していますので安心。

ちなみに路線バスでの移動は、那覇バスターミナル⇒糸満バスターミナル⇒ひめゆりの塔前を下車まで約1時間。
定期観光バスも人気があります。有名なところでは那覇バス沖縄バスがあります。那覇バスの場合を例にすると、ゆいレール旭橋駅近くにある那覇バスターミナルから9:00発で首里城⇒旧海軍司令部壕⇒ひめゆりの塔⇒平和祈念公園⇒おきなわワールドまで4800円、約7時間30分とお得です。那覇空港にも予約受付カウンター有り。
レンタカー等で那覇市から、ひめゆりの塔方面へと向かうと少しコースは外れますが(県道231号線)、沖縄ならではのハンバーガーショップ、Jef(ジェフ)があります。ゴーヤーバーガーなんて沖縄らしいです。ぬーやるバーガーもかなり癖になる美味しさですよ。ご当地バーガーショップでは他にA&Wもありますが、こちらは空港にもあります。そして、やはりと言うか沖縄でもマックが結局は一番人気だったりします・・・ 店舗数も多いですからね。
ひめゆりの塔前の道です。道沿いには土産屋が建ち並んでいます。沖縄そばも手軽に食べられます。
動員:1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学徒は戦場に動員されます。ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。砲煙弾雨の中、学徒は負傷兵の看護や水汲み、伝令、食料運搬などを担いました。

撤退:5月下旬、米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫り、陸軍病院も南部への撤退が始まります。学徒たちは砲弾と悪路の中をこの南部までたどり着きます。病院としての機能を失った後も伝令や水汲み、食糧確保の任務に当たりました。

解散:6月18日夜、緊迫した戦況の中で、ひめゆり学徒に突然「解散命令」が下されます。激化する戦場で、負傷した学徒は壕に残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。
ガマのある第三外科壕が主な見学場所(洞窟を上から眺めるだけ)となっていますが、肝心のひめゆりの「塔」は写真の赤い点線の枠の中です。塔と言っても物凄く低くて写真右のほうにあるのがそうだと思ってました・・・ 

尚、近くにある、ひめゆり平和祈念資料館は300円(撮影禁止)。時間があれば是非とも寄ってみましょう。寄らない人が多いのですが・・・

●平和祈念公園
沖縄戦跡となる沖縄平和祈念公園(沖縄戦跡国定公園)。一帯は沖縄戦最大の激戦地でもあり、18万人余の遺骨が安置されている沖縄戦没者墓苑、沖縄戦で亡くなった人の名が刻まれた祈念碑、陸軍の牛島司令官が天皇陛下万歳と涙して叫び、自決した洞窟(立入禁止)、沖縄戦の歴史を今に伝える沖縄県平和祈念資料館などがあります。

<住所>
沖縄県糸満市摩文仁
<アクセス>
ひめゆりの塔と同じく、平和祈念堂入口を下車。

こちらは沖縄戦で亡くなった人の名が刻まれた祈念碑、平和の礎。公園内には特に目立った見所はないものの、沖縄の美味しい食べ物や美しい海だけではなく悲惨な歴史を知る上で是非とも立ち寄って欲しい場所です。
この公園に来たら必ず寄って欲しい場所が沖縄県平和祈念資料館です。軍民合わせて20万人余りの死者を出した沖縄戦。悲惨な沖縄戦の実相と教訓を後世に正しく継承していくのも私達、日本人の責務ではないでしょうか。
平和祈念資料館の入口にある不発弾です。資料館は9:00〜16:30で観覧料300円となっています。年末年始休館、臨時休館日あり。尚、館内は残念ながら撮影禁止となっています。

退館後は、かなり気分が落ち込みますので、旅行の計画にはこれらの資料館や戦跡を旅の前半、後半どちらに組み込むのかは重要となります。
綺麗な沖縄の海ですが、米軍に追い詰められた多くの人がこの崖からも身を投じたと思うと複雑な気分です。

●おきなわワールド文化王国・玉泉洞(ぎょくせんどう)
沖縄県最大の鍾乳洞、玉泉洞を観光のメインに沖縄の昔の町並みを再現した王国村では、琉球ガラスの体験教室や竹笛、染色、琉球和紙などの沖縄の伝統工芸を体験することが出来ます。その他、伝統芸能のエイサーの公演や熱帯フルーツ園など見所も豊富です。

<住所>
沖縄県南城市玉城村字前川1336
<入園料金>
1200円(玉泉洞&王国村) 9:00〜18:00(季節変動有り)

ちなみに王国村のみは600円、ハブ博物公園は別途600円、フリーパスは1600円となっています。尚、空港やホテル、レンタカー屋さんなど至る場所に割引チケットが置いてありますので活用しましょう。

<アクセス>
車では平和祈念公園より約15分、バスでは那覇バスターミナルから玉泉洞前を下車、約1時間です。
総延長約5km(観光洞窟は890m)もあるこの洞窟は、沖縄県で最大の規模を持ち、洞内には大きな川や滝なども見ることができます。又、この地下水に含まれる大量の石灰分によって、つらら石は3年に1mmという驚異的なスピード(通常は1mmの成長に10年前後)で成長しているとのことです。
洞窟内には槍のように無数に天井から鍾乳石が垂れ下る槍天井や水量が豊富で豪快な滝があったりします。
一般的に鍾乳洞というと夏でも寒いイメージがありますが、玉泉洞の温度は平均21℃程度だそうで夏はやや涼しく、冬場はムワッとしています。一年中、暖かいせいか洞窟内には多くの生物が棲んでいます。魚とか普通に見られますよ。
槍天井と並んで見所となるリヌストーンダム(リムストーンプール)。まるで棚田のような美しい水たまりです。
おきなわワールドの巡り方は、先ず最初に入口近くにある玉泉洞を見学。見学を終えて洞窟を出ると、園内の一番奥に出てきます。そこから熱帯フルーツ園⇒沖縄の昔の町並みを再現した王国村を抜けて元の場所に戻ってきます。沖縄の昔の町並み・・・と言っても土産物屋と体験教室がメインとなっています。
屋根にひょっこり乗っかっているのは、沖縄の守り神として古くから親しまれているシーサー。沖縄県では家々の門や石屋根に乗っかっている色形も様々なシーサーをよく見かけます。シーサーの他、沖縄県では多くのサトウキビ畑を見かけます。江戸時代、肉や卵、刺身、砂糖を使用したコンペイ糖やカステラなど庶民には手の届かない贅沢品でした。江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗は、砂糖(サトウキビ)の製造に初めて成功したとされる琉球からサトウキビを取り寄せ、本格的に栽培され後に砂糖を原料とする菓子が庶民にも広まったとされます。ちなみに、ここでもサトウキビジュースを飲めますので一度はお試しあれ。。

●沖縄美ら海水族館
海洋博公園内にある沖縄美ら海水族館は、観光客にとっては首里城と並ぶくらい人気のあるスポットです。世界最大の魚ジンベエザメに回遊魚、数多くのマンタが観察できる大迫力の巨大水槽、黒潮の海はいつまでも眺めていたい空間です。

<入館料・営業時間>
1800円 8:30〜17:30(夏期は20:00まで)入館締切は1時間前です。12月の第1水曜日とその翌日(木曜日)は水族館を含む海洋博公園は休園となります。
<住所>
沖縄県国頭郡本部町字石川424

<アクセス>
那覇空港や那覇バスターミナルから名護バスターミナルへ。そこから路線バスで記念公園前を下車。車では沖縄自動車道の終点、許田I.Cを下りて国道58号線、国道449号線、県道114号線、水族館まで約2時間。道路の標識は海洋博公園を目印にして下さい。

おきなわワールドと同じく、水族館も空港やホテル、コンビ二、レンタカー屋さんなど至る場所に割引チケットが置いてありますので活用しましょう。
449号線ではなく古宇利島経由(505号線)で沖縄美ら海水族館(海洋博公園)へ行かれる場合、又は帰りのルートを選択した場合、古宇利島手前の屋我地島までワルミ大橋が2010年に開通しています。レンタカーの場合、大抵は地図が古いので橋が載っていないので注意です。ワルミ大橋から見える羽地内海(ワルミ海峡)は沖縄の海とはまた一味違った美しさがあります。
水族館のある海洋博公園(国営沖縄記念公園)内には、他にも植物園や郷土村など楽しい施設がいっぱいあります。全部まわれば半日以上は楽に費やします。
どこの水族館にもいるような熱帯魚やサンゴなどがたくさん飼育されています。サンゴ系は勿論ですが、特に深海系が強いような気がしました。
一番の見所はなんと言っても世界最大規模を誇る巨大水槽、黒潮の海。この迫力には、ただただ圧巻です。この巨大水槽は誰でも水槽に目が釘付けになること間違い無しです。逆に言えばこの水槽以外は他の有名水族館とそれほど違いはありません。
それにしても、異様にマンタが多い気がします。気のせいでしょうか?いえ、隣のアベックも「マンタ多くね?」と呟いていましたし・・・
さっきの巨大水槽を下から見上げることもできます。ここでもマンタが写真に入ってしまいます(笑)

写真を撮られる方は館内が暗いので手ぶれに注意してください。結構皆さん写真撮りに苦労していました。コンデジなら小さな三脚とかあったほうがいいですよ。
屋外にはウミガメを水上と水中から観察できる場所や、イルカを間近で観察イルカラグーンなどがあります。マナティーもいるよ。
水族館から見えるエメラルドビーチ。全国でも唯一といってよい礁湖(ラグーン)内にあるビーチで、歩いていくこともできますが近くには無料で止められる駐車スペースもあります。
人工ビーチなのですが、そんなことはどうでもよいくらい綺麗な海です。このビーチは水質は“AA(もっとも良い)”と認められているそうです。
浜には遊びの浜、憩いの浜、眺めの浜などがあり、一度に3000人が泳げるんだそうです。泳ぐと言っても水深が物凄く浅いんですが・・・
ウミガメも産卵しに来るビーチなんですって!

●万座毛(まんざもう)
県の名勝にも指定されている万座毛(まんざもう)の名は、18世紀前半にこの地を訪れた琉球国尚敬王が、万人が座ることのできるモウ(草原)と讃え命名したといわれています。

<住所>
沖縄県国頭郡恩納村恩納
<アクセス>
那覇バスターミナルからバスで恩納村役場前を下車、徒歩約10分。車では沖縄自動車道の屋嘉ICを下りて国道58号線経由で約1時間。

那覇市内は常に混雑しますが、このあたりは沖縄自動車道を使わなくても時間帯によっては到着までの時間がそれほど変わらない場合もあります。
沖縄は土産物屋が多く、県内どこの観光地でも土産物屋があります。そしてここ万座毛にも景色に似合わないほど多くの店が並んでいます。土産物屋(無料駐車場)から海へと向かうと台地に出ます。目の前に広がる草は亜熱帯沖縄を代表するコウライシバ。周辺の植物は万座毛石灰岩植物群落として県の天然記念物に指定されているそうです。
う〜ん、どこ行っても沖縄の海は綺麗ですねぇ。泳ぎたい、潜りたい、釣りしたい衝動にかられます。
トップにある象の鼻の形をした岩が有名な風景なのですが、同じくらい又はそれ以上に人気のある景色が反対側のこの写真の絵です・・・

だってこっちの方が綺麗なんですもの^^;

●旧海軍司令部壕
海軍壕公園内にある旧海軍司令部壕は昭和19年、日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られ、この壕には沖縄戦での持久戦に備えて約4000人の兵士が収容されていました。当時は450mあったとされる内の約300mが現在公開されています。

<住所>
沖縄県豊見城市豊見城236
<参観料>
420円 8:00〜17:00(7〜9月は8:30〜17:30)
年中無休

<アクセス>
那覇バスターミナルからバスで豊見城公園前を下車し、徒歩約10分です。車では那覇空港や那覇中心部からでも20分程度なので観光の予定が立てやすいのも嬉しいですね。
壕の近くにある昭和32年建立された慰霊塔。戦後、壕内からは計2400名もの遺骨が収集されたそうです。尚、遺骨は現在、沖縄平和祈念公園内の国立沖縄戦没者墓苑に安置されています。
昭和20年4月、沖縄へのアメリカ軍の上陸が開始されます。5月になり攻撃が那覇市街地にまで迫ると、日本陸軍は南部への撤退を開始します。大田實少将(死後、中将に昇進)率いる海軍部隊もこれに合流するために移動を開始しますが、アメリカ軍の激しい攻撃のため合流できずにここ小禄地区の海軍壕へと引き返し孤立してしまいます。大田司令官は海軍次官宛てに発信した有名な電報、『〜沖縄県民斯ク戦ヘリ〜』(戦闘に協力した沖縄県民に対しての思いや苦しみを報告し、県民に対して特別の配慮を願う)を打ち、6月13日に拳銃自決しました。20万人以上の死者を出した沖縄戦は同月の23日、陸軍司令官である牛島満中将(死後、大将へ昇進)の自決によって大規模な戦闘は終了しました。
最初に沖縄戦での資料や遺品が展示されているビジターセンター内にある資料館を見学した後に壕内へと向かいます。30mほど続く階段を下りると、写真トップの司令官をはじめ、医療室や暗号室などが当時のまま残されています。
第226設営隊(山根部隊)約3000名が地下壕の設営にあたり、工事の大半はつるはしなどを使った手作業で行われていたそうです。
こちらは幕僚室。漆喰で固められた部屋は当時のままで、玉砕の近い6月頃には横になる場所が無いほどの人で埋め尽くされ、兵士は立ったままで睡眠休息ととっていたそうです。尚、点在する黒いシミは幕僚が手榴弾で自決した時の破片の跡なんだそうです。。。
慰霊塔前広場の丘の上ににちょっとした展望台があり、南部市街を見渡すことができます。

●今帰仁城(なきじんじょう)
琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産にも登録されている今帰仁城跡は、かつて琉球に統一王国が樹立する以前の三山時代(北山、中山、南山)北山王の居城として城が築かれ、沖縄本島北部(やんばる)の政治、経済、文化の拠点となったグスク(石垣で囲われた城、又は集落など)とされます。

<住所>
沖縄県国頭郡今帰仁村今泊5101
<開園時間>
8:00〜18:00 400円(歴史文化センターと共通券) 年中無休。

<アクセス>
沖縄美ら海水族館からも近く、アクセスも同じく那覇空港や那覇バスターミナルから名護バスターミナルへ。そこから路線バスで今帰仁城址入口を下車し徒歩約20分。やはり車の方が便利です・・
今帰仁城は15世紀初頭まで隆盛を極め、北山最後の王、攀安知(はんあんち)が1416年に尚巴志の率いる連合軍によって滅ぼされ、その後に監守制度(1422年〜1665年)がしかれ首里王府から派遣された監守によって北部地域が統治されたとのこと。
13世紀末〜14世紀前期には土地の有力者が、この地にグスクを構えることにしました。ところが、当時の地形は岩山で平坦地は在りませんでした。そこで版築敷地を造成し、斜面には土留めの石積みを築き、敵の侵入に備えて館の周りを柵で囲っていたと考えられます。

遠くに見える海がとっても綺麗です。
14世紀中期になると柵のかわりに石垣が築かれ、礎石建ての正殿が建てられ城(グスク)としての形が整ったそうです。

14世紀後半〜15世紀前期頃には今帰仁城が最も栄え、敷地もさらに拡張され主郭が現在の面積に達したそうです。中国産の陶磁器も多く出土していることから中国との貿易も活発であったようです。
15世紀前期〜17世紀前期では中山王(尚氏)に征服され、今帰仁城の繁栄の時期が終わりました。しかしその後は、中山(ちゅざん)より遠隔地にあるため、同城が謀反を起こすのを恐れ、それを阻止するため中山より監守(役人)が来て、北部地域を治める拠点として使用されたそうです。

写真は少なくとも17世紀頃(監守が引き上げた後)には設置されていたと思われる火神の祠(ひのかんのほこら)。現在の祠は戦後に改築したものを移築したらしいです。
1984年の発掘調査では、平場の造成において土を何重にも敷き固める版築と呼ばれる土木技術が用いられています。本丸の発掘調査では9枚の層があり、20〜120cmにもなる第8層においては、さらに1〜5cmの縞模様の土層が約30回も突き固められていたそうです。第8層のほか、第3層と第4層では土と石を交互に敷きつめた平場造成がなされているそうです。層だけに・・・
城壁は自然石をそのまま積み上げたシンプルな野面積み(のづらづみ)ですが、沖縄の海とマッチしていて、とても美しく感じます。
見学を終えた後は共通券で入れる歴史文化センターも寄ってみましょう。今帰仁村の歴史とか、多少の展示物と、それほど見所はないのですが共通券だし。。。


沖縄県の観光