●川中島古戦場(八幡原史跡公園)
武田信玄と上杉謙信が戦った有名な川中島の戦い。戦いは第一次から第五次まで5度あり、なかでもこの一帯で戦われた第四次合戦(八幡原の戦い)は多くの死傷者を出す大規模なものとなり、一般的に川中島の戦いといえば、この地で行われた戦いを指します。

<住所>
長野県長野市小島田町
<アクセス>
長野駅からは川中島バス古戦場経由松代行きで約20分、470円。川中島古戦場を下車すぐです。尚、バスは1時間2本程度です。

公園内自由ですが、駐車場は8:30〜17:00となっています。
古戦場といっても、いたって普通の公園です。公園の端には平安中期、源頭清が信濃の国に流された時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊:ほんだわけのみこと)を祀ったとする八幡社があります。川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営をされたそうです。現在は諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などだそうです。
ここ八幡原史跡公園は、1561年の第四次川中島の戦いで、武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。両者の睨み合いが続く中、信玄は奇襲にでます。高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊を、上杉謙信が籠る妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。写真はその八幡原本陣を再現したもの。

後世、啄木鳥(キツツキ)戦法と呼ばれるこの作戦は、山本勘助の発案であったとされています。
しかし、謙信は海津城から立ち上る炊飯の煙がいつになく多いことから、信玄が動いたことを察知します。信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下り、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机にすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎打ち」の伝説もこの戦いで生まれました。窮地に立たされた信玄ですが、別働隊の到着により謙信は撤退し、信玄も被害が甚大で追撃はしませんでした。尚、キツツキ戦法や一騎打ちは創作とも言われています。
八幡社の隣に植えてある逆槐(さかさえんじゅ)。案内板によれば、山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、1561年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいたそうです。このとき土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭の根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられるとのこと。あくまで伝えられる・・・ですが。
この塚(首塚)は以前は屍塚(かばねつか)と呼ばれ1561年9月10日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正(こうさかだんじょう)が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬ったそうです。これを知った上杉謙信は感激し、後に武田氏が塩の不足に陥って困っていることを知り、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と、敵である武田氏に塩を送ったという逸話があり、「敵に塩を送る」という言葉は、この逸話から生まれたそうです。 他にも境内には三太刀七太刀之跡や執念の石といった本当かどうかも怪しいものがありました・・・

●典厩寺(てんきゅうじ)
武田信玄の父、信虎の子であった武田信繁の墓がある曹洞宗の寺院、典厩寺。信繁は第4次川中島の戦いで討死し、その死は「惜しみても尚惜しむべし」と評され、敵である上杉謙信からも、文武両道に優れた名称としてその死を惜しまれたそうです。その後、遺骸は鶴巣寺に埋葬され真田信之の命により典厩寺と改められました。

<住所>
長野県長野市篠ノ井杵渕1000
<アクセス>
長野駅からは川中島バス古戦場経由松代行きで約20分、470円。水沢典厩寺下車、徒歩約5分。川中島古戦場からは運賃170円です。

<拝観料>
200円。8:30〜17:00
こちらは境内入口にある閻魔堂です。1860年、この閻魔堂は松代藩8代藩主真田幸貫公の発願いによって川中島合戦の戦死者6000余名追善供養のために建立されました。
堂内には日本一大きい朱塗りの閻魔大王像が祀られています。川中島合戦後300年を記念して造られたそうです。閻魔様の後ろには四天王が描かれています
さらに、天井には思わず見とれてしまうほどの見事な三十三身観音菩薩が描かれています。他、境内には合戦で使用されたとされる信繁の太刀や兜などが収められている川中島典厩寺記念館がありますが、訪問時は扉が閉まってました・・・ ところで、記念館が開いていることがあるのだろうか?と思えるほど境内は静かで誰もいませんでした。

●真田邸・真田宝物館
1864年に松代藩9代藩主、真田幸教によって建てられた御殿は、当初は幸教の義母・貞松院の住居でしたが、明治以降は真田家の私的住居となったことから真田邸とも呼ばれています。敷地内には主屋(御殿)と表門、7棟の土蔵などの付属施設に加え、庭園が一体のものとして残されており、全国でも数少ない御殿建築の遺構です。

<住所>
長野県長野市松代町松代1
<アクセス>
長野電鉄の松代駅から徒歩約5分。松代城跡、真田宝物館、文武学校は全て楽々徒歩圏内です。

<入館料>
それぞれ真田邸200円、真田宝物館300円となりますが、真田宝物館・文武学校・真田邸の3館共通券400円がお徳です。ただし、宝物館のみ火曜休。営業時間 9:00〜17:00 
御殿(主屋)は、表座敷や居間・湯殿など、江戸時代の大名邸宅の面影をよく残しています。ほかにも真田家伝来の大名道具が納められていた複数の土蔵や、表門、往時の姿を残す庭園など、簡素ながらも全体が残ってる「御殿建築」は、全国にもほとんど例がなく、非常に貴重なものとのことです。
9代藩主真田幸教に好まれたという水心秋月亭。周囲の山々を借景として取り入れた庭園の池の水は、当時松代城の三の堀へと流れ込んでいたそうです。
おっ、こんなところに可愛い巾着が!江戸時代ともなると、釘隠しでさえ洒落ています。真田家と言えば大坂夏の陣で活躍した武将、真田信繁(幸村)が有名ですが、豊臣方についていた為、家康が死を覚悟するほどまで追い詰めたものの討死します。父である真田昌幸と信繁は豊臣方だったのに対し、同じく昌幸の長男、真田信之は徳川方についていたため、後に信之は松代藩、上田藩の初代藩主となり、以後も大名として生き残ることが出来たとされます。
そんな馴染の薄い真田信之、さらには9代藩主の真田幸教までくると知名度は皆無。そのせいか観光客は少なめです。写真は真田宝物館で、松代藩や真田家に関する資料や武具、調度品などが展示されています。
観光客が少ないとは言え、真田家十万石の城下町を演出した落ち着いた雰囲気と静けさは、大人向けの観光地としてはお薦めです。

●旧松代藩文武学校
松代藩・8代藩主の真田幸貫は、文武の奨励を目的として、1851年に松代藩の藩校である文武学校の建設準備にとりかかりました。9代藩主・幸教は、幸貫の遺志をついで学校建設に着手し、建物は1853年に完成しました。しかし、藩主の居宅である花の丸御殿の火事などにより、開校は1855年まで遅れました。文武学校の特徴は、他藩の藩校とは違い、儒教の教えを排除した点にあります。そのため校内には孔子廟がありません。現在残る建物群は、開校当時の姿をほぼ伝えています。
<住所>
長野県長野市松代町松代205-1

<アクセス>
真田邸から歩いて2分程度です。9:00〜17:00 160円

写真は文学所で、藩校は儒学の祖である孔子をまつる孔子廟を中心に設けているのが普通の姿であったのに対し、文武学校では松代藩主、長谷川昭道の建言によって孔子が祀られていませんでした。
文武学校での授業は、文学(漢学)・躾方(しつけ)・医学・軍学といった文学のほかに西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸がありました。西洋医学や西洋砲術を取り入れるなど、当時においては学問水準はとても高かったようです。

写真は1863年まで使われていた柔術所。その後は教室→柔道場→音楽教室として使用されていたそうです。
こちらは剣術所。日割りによって剣術各流派を学ぶことができたそうです。この剣術所も時代とともに、教室→東体操場→図画室、工作室と使用されたそうです。
射芸を指南する道場、弓術所。開校時の日割表によると、射芸は8人の師範が授業にあたって、2流4派範家が担当していたそうです。弓術も柔術と同じく1863年に藩からの命令で授業は行われなくなりました。その後は理科室、第一音楽室などとして使われたそうで、現在の矢場は復元されたものとなっています。
文学所についで大きな建物である槍術所。上棟は1853年のもので、文武学校で最初にできた建物だそうです。明治時代、真田家の菩提寺である長国寺の庫裏が焼失したため、この建物が転用され、現在の建物は復元されたものとなっています。

ちなみに、施設利用料金を支払えば現在でも各道場を使用することができます。

●松代(海津)城跡
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが1560年ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。1622年に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。
<住所>
長野県長野市松代町松代44

<アクセス>
長野電鉄の松代駅から徒歩約5分。見学自由。

当時と同じ工法で積み直された石垣がある程度で、遺構と呼べるものはなく見所的なものは皆無です。

●長国寺(ちょうこくじ)
松代藩真田家の菩提寺となる曹洞宗の寺院、長国寺。ここ長国寺には真田信之をはじめ、歴代の松代藩の藩主、家臣などが眠っています。現在の本堂は火災により明治19年に再建されたものとなっています。

<住所>
長野県長野市松代町松代1015
<アクセス>
長野電鉄の松代駅から徒歩約15分。9:00〜16:00 水曜休。墓所のみ拝観料300円で要予約。
真田家の紋章、六文銭(六連銭)が印象的です。この六文銭は三途の川の渡し賃ともいわれています。その上にある立派なシャチホコですが、松代城廃城後に大御門の鯱がこちらに移されたとのことです。あくまで噂です・・・
私は入りませんでしたが、墓所内は有料です裏手からチラッと見えます。ちなみに、当寺訪れる人は皆無のスポットです。

他にも周辺には第2次世界大戦末期に極秘に掘られた松代・象山地下壕や、幕末の開国論者で松代藩士の佐久間象山の遺品、資料を展示した象山記念館など、渋めの観光スポットございます・・・

●大王わさび農場
信州、安曇野を代表する観光地、大王わさび農場。わさびを育てる水は、北アルプスの雪解け水が地下に浸透し、長い年月を経た湧水群より引かれたもので、年間を通して水温は13℃と冷たく、この冷たくて綺麗な水が日本最大規模のわさび園をつくりだしています。本わさびソフトクリーム、わさびコロッケ、わさびジュース、わさびコロッケバーガーなど、わさび好きには堪らない場所です。

<住所>
長野県安曇野市穂高1692
<アクセス>
JR大糸線の穂高駅から徒歩約30分、タクシーで約10分、駅前にレンタサイクルあり、1時間200円(電動アシストもあります)。最寄の穂高駅までは長野駅からは約2時間半かかります。松本駅からはJR大糸線で約30分、320円です。
電車でアクセスされる方はレンタサイクルがお薦めです。大王わさび農場までは約2km、平坦な道なので疲れません。ちなみに穂高温泉郷までは約4km、アップダウンがあります。駅前のレンタサイクル店には電動もありますが、行楽シーズンは要予約です。
大王わさび農場まで向かう途中には、松本藩主の鴨猟などの休憩所として使われていた重要文化財の本陣等々力家(300円)や、願いが叶う吉祥仁王さまの大きな下駄が特徴の東光寺などもあります。他にも駅周辺には日本アルプスの総鎮守とされる穂高神社や安曇野を代表する美術館、碌山美術館などもあり、詳しくは穂高駅を出て左手にある、観光案内所やレンタサイクル店で情報収集しておきましょう。写真は東光寺で、本堂の裏手では規模は小さいながらも善光寺のような戒壇めぐりも楽しめ?ます。
15haもの大きな農場には、わさびがぎっしりと植えられています。ワサビの開花時期は3月初旬から4月中旬までで、収穫時期は通年です。直射日光を避けるため、4月末から9月末までは黒い寒冷沙と呼ばれるもので覆われています。
わさび農場ですから、沢山のわさびが植えられていて、わさび漬体験工房があったり、わさび関連の土産物が売ってたり・・・とまぁ、当然そんな程度なのですが、他にも故、黒澤明監督の映画「夢」のロケ地になった水車小屋をクリアボートに乗って見学できたりもします。
わさび田を横切る橋(幸いのかけ橋)の先には、休憩所、食事処、中にいる七福神にさわると幸せになれるという言い伝えがある小さな洞窟、開運洞や、その隣にある大王が最後にたてこもったと言われている大王窟などもあります。写真ではあまり写りこんでいませんが、かなりの数の観光客がいます。
758〜805年頃、安曇野を守っていた八面大王(魏石鬼八面大王:ぎしきはちめんだいおう)という怪力無双の首領がいたそうです。しかし、全国統一をめざす中央政権によって倒されてしまいました。この八面大王があまりにも強かったため、再び生き返らぬようにと遺体はバラバラにして埋められたそうです。農場の一角に胴体が埋められているとされ、八面大王を祀った大王神社が幸いのかけ橋の手前にあります。
せせらぎの小路(砂利道)を自転車でキコキコ進めば、美しい安曇野わさび田湧水群があります。小路の途中には、吉永小百合さん撮影場所もあります。観光客は皆無でした・・・
安曇野といえば、道祖神巡りも有名です。本来は悪霊や疫病など邪悪なものが集落に入り込んでこないように、辻村境・峠などに祀ってきたのが始まりとされる道祖神(どうそじん、どうそしん)。500体を超える道祖神が安曇野のいたるところで旅人の安全と、人々の暮らしを見守っているそうです。尚、混同しがちですが、道教から由来する庚申信仰から建てられた庚申塚(庚申塔)とは、別々の目的(信仰)となっています。写真は水色の時道祖神で、1975年頃に放送されたNHK連続テレビ小説の「水色の時」で撮影用としてつくられた道祖神だそうです。
わさび大農場は大きくて圧巻でしたが、水色の時道祖神の周辺にはわさびの小・中農場が恐ろしいほど存在します。時間があれば、ここらへんの散策もお薦めです。

●妻籠宿(つまごじゅく)
江戸時代の五街道の1つ、中山道(なかせんどう)の42番目の宿場である妻籠宿。古い家並みが続く通りには、解体復元された家屋だけでなく当時から残る建築物もあり、江戸時代の旅人気分を存分に味わうことができます。

<住所>
長野県木曽郡南木曽町吾妻2159-2(観光案内所)
<アクセス>
名古屋駅、東京駅経由の場合、名古屋駅→中央本線の南木曽駅からバス(1時間1〜2本)で約10分(300円)で妻籠を下車(徒歩だと40〜50分かかります)です。新宿駅からは塩尻駅経由で南木曽駅。あとは先程のアクセスと同じです。岐阜県側には中山道43番目の宿場であった馬籠宿(まごめじゅく)があります。こちらも南木曽駅からバス(800円)があります。
妻籠宿の近くに馬籠宿(岐阜県)があります。セットで観光される場合は、南木曽駅⇔妻籠宿⇔馬籠宿を運行するバスもあります。妻籠宿、馬籠宿間は600円。ただし馬籠宿までの本数は2時間1本程度となりますので注意です。マイカー、レンタカーの方は駐車場500円。アクセスに関しては公式ページに細かく書かれていますのでそちらを参照して下さい。

体力に自信がある方は昔の旅人が歩いていた中山道(ハイキングコースが整備されています)を徒歩で移動してみましょう。妻籠宿→馬籠宿まで約8km(2時間)。妻籠宿よりも馬籠宿のほうが標高が高く、上り坂となりますので注意です。
妻籠宿は全国で初めて歴史的町並み保存をした宿場町。今でも妻籠宿では宿泊することも出来るんですよ。
街道には道が直角に折り曲がった枡形と呼ばれるものがあります。これは城郭建築の桝形を模したもので、本来宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示しているのだそうです。こちらの折り曲がった細い道にはアスファルトもなく、より当時の面影が残されています。
こちらは妻籠宿本陣(300円)。残念ながら明治時代に取り壊しになったため、江戸後期の絵図をもとに復原されたものとなっています。
本陣は大名などの宿泊所として幕府に指定されていた施設で、島崎藤村の母の生家でもあるそうです。近くには脇本陣奥谷、歴史資料館(共通券700円)もあります。
こちらは運び屋である人足の指示や馬の手配、荷物の割り振りなどをしていた入馬会所(じんばかいしょ:問屋場)。今でも妻籠宿⇔馬籠宿までの手荷物運搬(手荷物1個500円)が出来るんですよ。当然、今の時代は車で運ぶんでしょうが。。
こちらは建造当初、長屋であったものを解体復原した下嵯峨屋。
櫛、下駄 竹製品などの民芸品などを扱った土産物屋も多く建ち並び、中山道の文字の入ったひのき笠も人気です。
他にも郷土料理を出す店や居酒屋、小腹が減ったら五平餅、栗ぜんざい、栗菓子などの食べ歩きもいいですね。
中央駐車場へ駐車されたからは右側から、バスで来られた方や第一駐車場に駐車された方は左側から見学していきます。ちなみに真ん中にあるのが第二駐車場で、右上方向に第三駐車場もあります。
車で来られた方(駐車スペースは数台です)や岐阜県側の馬籠宿まで中山道をハイキングされる方は道中に男滝女滝(おだきめだき)という滝があります。
橋の左奥にあるのが男滝。木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩いの場であったそうです。高低差はそれほどないものの、水量があり滝周辺は風が強く吹いています。
そして橋の右手にあるのが女滝。幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたと思われるそうです。こちらも男滝と同じく滝の近くまで行くことが出来ます。

●奈良井宿(ならいじゅく)
江戸時代の五街道の1つ、中山道(なかせんどう)の34番目の宿場であった奈良井宿。中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く、奈良井千軒と呼ばれるだけの旅籠や店が建ち並び、当時は木曽11宿中で最も賑わった宿場でした。

<住所>
長野県塩尻市大字奈良井
<アクセス>
JR中央本線の奈良井駅からすぐですが、長野駅や名古屋駅、新宿駅からは電車で2〜3時間はかかります。車の場合は塩尻IC、又は伊那ICから約30分です。
奈良井川に沿って約1kmの中山道沿いに町並みが形成され、江戸時代の面影を色濃く残しています。距離が長いので結構見応えがありますよ。
寂しい感じの漂うJR中央本線の奈良井駅です。運行本数は1時間に1本程度あります。
駅から左手に歩くとすぐに枝道があります。右手に行けば中山道の面影が残る杉並木や二百地蔵へ、正面へ進めば宿場町、左手に進めば木曽の大橋へと行くことができます。
こちらが総桧造りの見事な木曽の大橋なんですが、見るほどのものでも・・・です。しかも線路が邪魔して宿場町へと向かうには再び来た道を引き返します。
今度は先程の枝道を右手に行ってみましょう。写真の二百地蔵は明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から聖観音や千手観音、如意輪観音などを集め、地蔵堂の前に安置されたものだそうで、全部で200体近い石仏があるそうです。
すぐ隣に杉並木があり、この道は江戸時代に定められた中山道で、杉並木が旧街道の面影をよく伝えています。胸高直径50cm以上の杉が17本を数えます。中山道と言ってもこの先は舗装された道路へと直ぐに出ます・・・
建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出しています。
奈良井宿の町屋の特徴は石置き式屋根で、通りに軒が並ぶ平入形一式の2階建で2階が1階よりも一尺五寸(95cm)ほど前にせり出した出染造にあります。また、1階と2階の境に取りつけられた庇板を押さえる桟木(猿頭・鎖庇)は中山道でも奈良井宿だけに見られるものです。
奈良井宿の町並みを特徴づけている水場(みずば)は生活に欠かせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられました。現在、奈良井には6箇所の水場が整備されています。
他の見所として、1602年から明治維新に宿場制度が廃止されるまで凡そ270年間継続して奈良井宿の問屋をつとめた上問屋資料館、塗櫛の問屋を営んでいた中村邸、400年前に建立された大宝寺ではキリシタン禁制によって破壊されたマリア地蔵尊を見ることができます。

尚、シーズンオフ(12〜3月)は資料館などは休館となっていて、観光客も週末ですら皆無の状態となります。逆に冬場は、心が和む静かな宿場町を見学するにはお薦めです。


長野県の観光