白川郷合掌造り集落や岐阜城、飛騨高山の古い町並など観光名所の豊富な岐阜県。乗鞍岳や槍ヶ岳、穂高岳などの名山もあり自然も豊富です。又、日本列島のほぼ中心に位置し、古くから美濃国と呼ばれたこの地域には多くの合戦が起きています。なかでも関ヶ原の戦いは有名で、関ヶ原一帯には多くの武将の陣跡が点在しています。

<お土産>
飛騨牛に高山ラーメンなど名物はありますが、土産物となると定番の栗きんとんや鮎菓子が有名です。他に五平餅、朴葉味噌など。
岐阜県一の繁華街はJR岐阜駅、名鉄岐阜駅周辺となり、北側に位置する柳ケ瀬周辺の繁華街は特に賑わいをみせます。岐阜駅までは新幹線でのアクセス可能ですが、名古屋からも電車で約20分と近く便利な位置にあります。

ただし、ここから人気の観光地でもある飛騨・高山までは遠く、JR高山本線で約3時間半、特急でも約2時間かかります。岐阜県の旅行には2泊以上での計画を立てるのがよいでしょう。
久しぶりに岐阜駅に訪れると、なんとそこには黄金の信長像が・・・ 右手に持っているのは火縄銃。
雨の降る夜は〜、心もぬれぇるぅ〜♪ 柳ケ瀬ブルースでお馴染みの?岐阜県一の繁華街・歓楽街となる柳ケ瀬。JR岐阜、名鉄岐阜と、どちらも1km程度も離れているために、観光客が訪れることはなさそうですが、高島屋を中心に昼夜問わず賑わいをみせます。JR岐阜駅の南側には全国的にも知られる金津園(かなづえん)があります。
柳ケ瀬も地方都市同様、昼夜を問わず、アーケード街を中心に賑わいをみせます。賑わいを・・・ 名古屋まで近いですし。。。

●白川郷(しらかわごう)合掌造り集落
白川郷に古くから残る合掌造りの集落は、江戸時代から昭和にかけて建てられた茅葺屋根の民家が100棟以上も現存しています。手を合掌したような形の屋根は強風や豪雪にも耐えうる優れた構造となっています。

<住所>
岐阜県大野郡白川村荻町
<アクセス>
高山駅の左手にある濃飛バス、高山バスセンターより約50分、往復4420円。1日数本運行し便によっては予約制となっています。

こちらは荻町城跡にある展望台で、白川郷の集落を一望することが出来ます。集落からは徒歩で15分程度で、車の方は無料駐車場もあります。
のどかな田舎風景で心が和みますねぇ。道路沿いには土産物屋さんや飲食店が建ち並び、朴葉味噌を使った郷土料理に飛騨牛や五平餅と食べ歩きも楽しい!
合掌造りの民家は有料で内部を見学することも出来ます。写真は合掌造り民家として最大級の規模をもち、集落を代表する民家ともいえる和田家住宅です。
家の中にはガイドさんもいるので和田家の歴史や合掌造りの構造等の説明を聞くことができます。それにしても、囲炉裏のある家っていうのは心が落ち着きます^^
江戸時代の頃には養蚕も盛んに行われていたそうで、蚕の糞などから造られる硝石(火薬)は白川郷の重要な現金収入源であったそうです。2階部分にはそれらの器具が展示されていて、風通しのよい屋根裏は蚕の飼育には最適な環境だったんですね。

●古い町並
城下町の中心、商人町として発展した上町、下町の三すじの町並みを合わせて古い町並みと呼び、伝統文化が漂う癒しの空間が広がります。

<住所>
岐阜県高山市上三之町

<アクセス>
JR高山本線の高山駅から徒歩で10分程度。
駅前から真っ直ぐ進み、川を渡ったあたりが国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている古い町並みがあります。周辺では毎年、春(山王祭)と秋(八幡祭)には高山祭(山王祭と八幡祭の総称)が行われ、カラフルな屋台(山車)が町を走り抜ける姿は圧巻で、他県からも大勢の見物客が訪れます。
こちらはJR高山本線の高山駅。この右手には高山濃飛バスセンターがあり、白川郷だけではなく富山や金沢、岐阜、松本などの多方面へも運行しています。

●岐阜城
戦国時代、美濃のマムシと恐れられた斎藤道三。斎藤道三が金華山の山頂に本格的な城を築き(稲葉山城)ますが、皮肉にも子である義龍(よしたつ)により道三(どうざん)は討ち取られます。その後、義龍の急死によって子の龍興(たつおき)が13歳で城主となりますが、後に織田信長によって攻め落とされました。

<住所>
岐阜市金華山天守閣18
<アクセス>
岐阜駅から長良橋(ながらばし)を経由するバスで岐阜公園歴史博物館前を下車(210円、約15分)。そこからは金華山ロープウェーで山頂(往復1080円)まで。ロープウェーを降りて岐阜城まではもう少し上にあり徒歩で10分程度かかります。
<金華山ロープウェー営業時間>
8:30〜5:30(季節変動あり) 岐阜城の入場料200円で、近くにある岐阜城資料館も見学できる共通券となっています。資料館って程のものではないですが・・・

他、周辺には岐阜大仏や岐阜市歴史博物館、川原町の古い町並みや長良川鵜飼開催地に長良川うかいミュージアムなど、どこも徒歩圏内にあります。
関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍によって落城し、その後に廃城となってしまい現在見る岐阜城は鉄筋コンクリート構造で再建されたものです。

それにしても岐阜城から観る景色が凄くいいんですよ〜!撮影日はシトシト雨に濃い霧も発生していましたが。。。
山の麓にある三重塔。別日に撮影したので天気は晴れてます。この三重塔は大正天皇の即位を祝う御大典記念事業として岐阜市が建立したものなんだそうです。

●長良川鵜飼(ながらがわうかい)
夏の風物詩でもある長良川の鵜飼は、篝火に集まる鮎を舟に乗った鵜匠が、巧みに鵜を操り捕らえる漁法であり、1300年ほど前から行われていた漁法だそうです。また網や釣り針を使用しないため、魚体を傷つけずに捕えることが出来、鮮度が良いことから鮎は皇居へも献上されています。古くは織田信長や徳川家康も鵜飼を保護していたそうです。

<住所>
岐阜県岐阜市湊町1-2(鵜飼観覧船のりば)
<アクセス>
地図の赤丸が長良川鵜飼の観覧船乗り場で、バスでは長良橋(ながらばし)を下車して下さい。青丸は川岸より鵜飼を見学することが出来る長良川プロムナード。バスは鵜飼屋を下車して下さい。

観覧船は団体さんが多く、のんびりと鵜飼いを鑑賞したい方は、遊歩道として整備された長良川プロムナードがお薦めです。鵜飼を間近で見れるだけではなく、鵜飼開催期間中にライトアップされた岐阜城を見ることもできますよ。
<開催期間>
5月11日〜10月15日 開始時間は19:30又は19:45(乗船時間は1時間程度前になります)で、料金は3400円程度(乗船時間や曜日によって多少変わります) 20:30頃に終了。中秋の名月や川の増水時は中止されます。

船内で食事をすることも可能で、持ち込み又は食事セットのコースもあります。

●長良川うかいミュージアム
岐阜市を代表する伝統文化である長良川鵜飼を発信する拠点として、開催時期の限られている長良川の鵜飼を、通年営業を行うことによってオフシーズンにもその魅力を発信しています。

<住所>
岐阜県岐阜市長良51-2
<開館時間>
5月1日〜10月15日  9:00〜19:00 / 10月16日〜4月30日  9:00〜17:00
年末年始、10月16日〜4月30日の火曜日(祝日の場合は翌平日)は休館。観覧料500円。

<アクセス>
JR岐阜駅または名鉄岐阜駅からバスで鵜飼屋を下車し、徒歩約6分です。最寄りバス停は長良川温泉(岐阜グランドホテル前)となりますが、この場合運行本数が少ないです。長良川うかいミュージアム⇔JR岐阜駅でレンタサイクル100円が利用できます。往きは自転車で、帰りはバスでなんていうのもアリだと思います。
まずはシアターで長良川鵜飼についてのお勉強です。こちらの施設には長良川鵜飼の開催時期ではない時に訪れましたので、当たり前と言えば当たり前なんですが、訪れる人が少ないです。いや皆無です。なんで岐阜公園あたりに建てなかったのでしょう?
外観は立派ですが、展示スペースはそれほど広くなく、強いて言えば見学できるところはこの写真のスペースくらいです。
左は新たな岐阜名物『鮎の姿鮨』。観光鵜飼の盛況とともに新しいタイプの鮎鮨が誕生していると書かれています。続いてみ右にあるのが気軽に食べられる『鮎雑炊』。現在、市内の飲食店などで気軽に食べられる鮎料理なんだそうです。気軽なのかなぁ。
左が平安時代の鮎鮨で宮中大饗宴会で出された鮎鮨の再現だそうです。右が江戸時代の鮎鮨で、江戸時代、将軍家に献上された長良川の鮎鮨。食べ物の写真は毎度必ず撮ってしまうのですが、館内にはそれくらいしか本当に撮るものなかったっす。
美しい長良川。山の頂上に岐阜城が建っています。夜は岐阜城がライトアップされて幻想的ですよ。

●岐阜大仏(正法寺)
正法寺(しょうぼうじ)に安置されている通称、岐阜大仏は日本三大仏の一つとされ、高さは13.7mもあります。乾漆仏としては日本一の大きさを誇り、漆塗りの上に金箔が貼られたゴージャスな大仏さんが、拝観者を覗き込むような角度で座っているため、ものすごい迫力を感じます。

<住所>
岐阜県岐阜市大仏町8
<拝観時間>
9:00〜17:00 200円 年中無休。

<アクセス>
JR岐阜駅または名鉄岐阜駅からバスで約15分(210円)、岐阜公園歴史博物館前を下車し徒歩5分程度。天気が良ければJR岐阜駅からレンタサイクル100円で向かうのもおススメです。
日本三大仏と言えば奈良と鎌倉は不動の地位ですが、あと1つが正法寺の岐阜大仏という噂もチラホラ。なにせ奈良の大仏とほぼ同じ高さの13.7mもありますからね。岐阜大仏は江戸時代に正法寺の第11代惟中和尚が、度重なる天災によって亡くなった死者を弔う為に建立を計画したもので、実に38年の歳月を費やして完成(第12代肯宗和尚の頃)したそうです。
乾漆仏としては日本一の大きさだそうで、その構造はイチョウの木を柱とし、そのまわりを竹材で編み、その上に粘土⇒和紙⇒金箔が張ってあるそうです。キラキラした金箔の大仏さんだけでも充分見応えありますが、さらに大仏の後ろの光背が覆いかぶさるように角度がついていて、写真では伝わりにくいのですが、まるで大仏さんがこちらをを覗き込むような感じがして見る者を圧倒します。恐らく、大半の方は大仏さん見て『うわぁ〜!』ってなりますよ。
仏殿自体は狭いのですが、大仏さん以外にも五百羅漢像も安置されていますので、マイナースポットとは言え、それなりに見応えあります。それなりに。

●岐阜市歴史博物館
岐阜城のある金華山のふもとにある、岐阜市の歴史と伝統工芸を紹介する博物館です。原寸大で復元された信長時代の楽市場など見所もそれなりにあります。

<住所>
岐阜県岐阜市大宮町2-18-1(岐阜公園内)
<開館時間>
9:00〜17:00 月曜、祝日の翌日、年末年始休館。入館料500円。

<アクセス>
JR岐阜駅または名鉄岐阜駅からバスで約15分(210円)、岐阜公園歴史博物館前を下車です。天気が良ければJR岐阜駅からレンタサイクル100円で向かうのもおススメです。尚、専用の駐車場が無いので、周辺でのイベント時には注意です。
市で運営している博物館なので期待は禁物です。美濃を中心とした古代から現代までの歴史を学べますが、それなりのスケールと展示内容です。写真は信長時代の楽市場を再現したもの。
尚、館内の大半は撮影禁止です。撮影可能なのは、この楽市場と出口にあった伝統工芸のウィンドウディスプレイくらいです。
美濃和紙?を売っているのでしょうか。
こちらは魚屋さんですね。
柱が凸凹しているのは、この時代に台鉋(だいかんな)が普及しておらず、槍鉋(やりがんな)や手斧(ちょうな)を使っていたからなんですって。このあたりは、楽市場にいるボランティアさんが丁寧に教えてくれました。
伝統工芸を紹介するコーナー。岐阜提灯・岐阜和傘・岐阜団扇の3種をメインに展示しています。

●名和昆虫博物館(なわこんちゅうはくぶつかん)
明治16年にギフチョウを発見した名和靖によって同29年に設立された名和昆虫研究所。名和昆虫博物館は、その付属施設として大正8年に開館した博物館で、日本に現存する昆虫博物館としては、最も長い歴史を持つそうです。

<住所>
岐阜県岐阜市大宮町2-18
<開館時間>
10:00〜17:00 水・木曜日休館。祝日の場合は開館。夏休み期間は無休。12・1・2月は火・水・木曜日が休館日となります。入館料500円。

<アクセス>
JR岐阜駅または名鉄岐阜駅からバスで約15分、岐阜公園歴史博物館前を下車し徒歩2〜3分。天気が良ければJR岐阜駅からレンタサイクル100円で向かうのもおススメです。
昆虫だけの博物館にしては入館料500円は割高に感じます。もしかしたら見応え凄いのかも?と少し期待しましたが、館内は狭いし見応えもありませんでした。ただ、親子連れが何組かいたのですが、親も子も目がギラギラして、会話も専門的な用語が飛び交っていて楽しそう。見る人によっては見応えのある博物館なんでしょう。昆虫に全然興味ないのに、なんで入ってしまったのだろう・・・
名前忘れましたけど、とっても綺麗な蝶ですね。ところで、ギフチョウはどこにいたんでしょう?もはや入館資格なしですね私・・・
展示されている標本は、基本的に蝶とクワガタ・カブトムシが多いような気がしました。

●川原町の古い町並み
長良川の川湊として繁栄した川原町は、古くは中河原と呼ばれ、斎藤道三や織田信長の城下町の時代には市場も開かれていたそうです。近世から近代を通して、上流からの和紙や木材などを扱う大きな商家が軒を連ね、長良川流域の拠点として栄えました。

<住所>
岐阜県岐阜市湊町・玉井町・元浜町
<アクセス>
JR岐阜からバスで約15分、長良橋を下車です。天気が良ければJR岐阜駅からレンタサイクル100円で向かうのもおススメです。
長良川と金華山に抱かれた川原町。切妻平入り、窓に格子を施し、壁を真壁造漆喰仕上げにした伝統的な町屋が並んでいます。

●関ヶ原古戦場
天下を統一した豊臣秀吉が亡くなった後、日本全国の大名が徳川派、反徳川派とに分かれてしまい、1600年10月21日に再び政権をかけた争いが始まります。徳川家康を中心とする東軍、そして石田三成を中心とした西軍の両者合わせて15万人以上の将兵が戦った場所がここ関ヶ原古戦場であり、天下分け目の合戦の舞台としても有名です。

<住所>
岐阜県不破郡関ケ原町
<アクセス>
JR東海道本線の関ヶ原駅から徒歩で。岐阜駅からは約30分、500円。名古屋駅からも約50分、970円と比較的近い場所にあります。

のどかな雰囲気の関ヶ原駅。駅を出ると目の前に観光案内所があります。ここでウォーキングマップをもらって歩き始めましょう!
関ヶ原の戦い
1598年、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が亡くなると、遺言によって家督は秀頼が継ぐことになります。この補佐にあたるよう命じられたのが、各地方を治めていた徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝、小早川隆景の重臣達。しかし、この時に秀頼はまだ6歳の幼さであり、家康は秀吉の遺書にもあった誓いを次々と破っていき、豊臣政権の内部では徳川派と反徳川派とで派閥争いが激しくなります。さらに、影響力の大きかった反徳川派、前田利家が亡くなると家康はやりたい放題!

そんな中、家康に不満を抱く五大老の一人でもある東北の上杉景勝は密かに戦カ増強を図ります。景勝にとっては全ては秀頼公のためであり、また家康にとっても秀頼公に対し謀反の疑いありと上杉景勝討伐(会津征伐)のため徳川派の大軍を引き連れ北上します。これと同時に石田三成は打倒家康の絶好の機会ととらえ反徳川派とともに挙兵することを決意します。反徳川派の三成は以前、前田利家の死後に加藤清正や福島正則をはじめとした徳川派の武将らによって襲撃された事件の責任を取らされ五奉行からの退隠させられた経緯があります。

三成の挙兵を知った家康は景勝討伐を中止し西へ転進します。この時、家康は三成の挙兵を、既に江戸城を離れる前に知っており、あえて三成を誘い出すために遅い進軍であったと言われます。三成もまた、それが罠だと知りつつも、あまりにも早い東軍の転進に大垣城で迎え討つ策を諦め、野戦(関ヶ原での待ち伏せ作戦)へと切り替えました。
駅を出て右手に進み線路をまたぐように橋を渡ります。JRの高架を渡って左手にあるのが東首塚。首塚(くびづか)とは首が眠っているお墓のような場所のことで、関ヶ原の戦いで討ち取られた西軍将士の首は家康によって首実検(誰の首なのかを確かめる)され、その後に塚を作って葬られました。写真は首洗いの古井戸で、この井戸水を使って血や土を洗い流してから首実験をしていたそうです。すっげ〜怖いんですけど・・・
すぐ手前には松平忠吉、井伊直政の陣跡があります。合戦時、夜明けから関ヶ原一帯は濃霧のために視界が悪く、東軍、西軍合わせて15〜16万余りの将兵が睨みあったまま対峙します。東軍の総大将である徳川家康から先鋒を任されていたはずの福島正則。しかし睨み合いが続いて2時間ほどすると、戦では武将でありながら自ら先陣を切って敵陣に乗り込むほど血の気の多い井伊直政は我慢できなかったのでしょう、なんと松平忠吉と井伊直政の両隊(約6000人)は福島隊を通り越し突撃をし、開戦の火蓋が切られたのでした。
そこから5分程度真っ直ぐ進むと歴史民族資料館があります。関ヶ原の戦いについての知識がない方でも、ここで合戦の概要を知ることが出来ます。自転車のレンタルもしてくれますよ。尚、ここから先、飲み物が買える場所はありませんので自販機で購入しておきましょう。
歴史民族資料館に立ち寄った後は写真右の徳川家康、最後の陣跡へ行ってみましょう。家康、最後の陣跡は資料館のすぐ隣にあります。最後の・・・とは、もともとは家康の陣はもっと後方にあったのですが、戦況がつかめないため10時頃に陣を進めた場所になります。
両側を山々に囲まれた狭いエリアの関ヶ原一帯ですが、歩くとなると結構大変です。一帯には多くの武将の陣跡が点在するだけであり、歴史に興味がない人には不向きな観光地です。
観光での関ヶ原古戦場の一般的なルートとしては、歴史民族資料館を見てから、近くの徳川家康最後の陣跡を見学。そこから決戦地→笹尾山にある石田三成陣跡と辿っていくのが時間もかからずお薦めです。写真は石田三成の陣跡がある笹尾山の入口。山と言っても楽々登れる山ですよ。
東軍の総大将、徳川家康に対し、西軍の総大将は毛利輝元。しかし輝元は総大将として石田三成に担ぎ出されただけであり、実際にこの合戦で総指揮をとっていたのは三成です。石田三成はこの笹尾山に約6000人もの兵と共に陣を構えました。

さすが石田三成、この笹尾山はかなり低い山なのですが、ここからは関ヶ原一帯を一望することができ、戦況も確実につかむことが出来ます。

笹尾山の風景動画(12秒)
こちらは関ヶ原の戦いでの東軍、西軍の布陣図です。実際にはもっと多くの武将が陣を構えて参戦しています。その兵数は15万余りとも伝わり、太田牛一の軍記によれば一帯は地響きのような叫び声と鉄砲や矢が飛び交い、黒煙によって視界も悪かったとのことです。

東軍の総攻撃に対して西軍は三分の一程度の将兵しか戦いに参加していません。山々に囲まれた西軍の地の利を得てこれで東軍と互角に戦っていたのですから凄いことです。さらに松尾山に待機している小早川秀秋(約15000)と、家康よりも後方に陣を構える毛利秀元(約15000)が挟み撃ちに出来れば勝利も確定したようなものです。ただし、これには三成の大きな誤算がありました。
石田三成の陣跡からしばらく歩いた場所に九州の武将、島津義弘の陣跡があります。関ヶ原の戦いの前哨戦となる会津征伐では、北上する家康の留守を狙って石田三成が京都の伏見城を攻めます。伏見城への救援として家康から挙兵を命じられ(会津征伐は形式的には朝廷も豊臣家も認めています)、義弘が手勢とともに伏見城へ入ろうとしますが、城主であった鳥居元忠に断られたと伝わります。
結果的に義弘は西軍として関ヶ原の戦いに加わることとなりますが、島津隊の兵力は伏見城の救援のための1500人程度しかなく、三成を落胆させたそうです。本合戦では義弘の夜襲案が無視されたり、援軍を要請しにきた三成の使者が下馬しなかったことなどの度重なる義弘の怒りを買い、積極的に兵を動かすことはなかったそうです。やがて、小早川秀秋の東軍への寝返りなどで戦況が悪化し、西軍の敗走がはじまると義弘も脱出を試みます。この時点で島津隊の兵力は300人程度まで減ってしまい本来であれば当然、後方に逃げるのですが、なんと島津隊は敵中突破にて敗走したのです。これが捨て奸(すてがまり)戦法と呼ばれるもので、敵の福島正則、井伊直政、松平忠吉、本多忠勝の間を突破し、家康の本陣の目の前までも迫ったそうです。結果的に義弘を含む80名余りが退却に成功しました。

序盤、西軍が優勢であったはずの関ヶ原の戦いですが、石田三成には数多くの誤算がありました。会津征伐において三成挙兵を知った家康が転進した後、上杉景勝と佐竹義宣とで挟み撃ちにする策略でしたが、佐竹義宣は西軍に味方するつもりが父が東軍寄りの立場をとったため参戦できず、上杉景勝は家康に守備を命じられた最上義光を倒してから家康を追う予定も、合戦がたった1日で終わってしまったため結局、家康と戦うことはありませんでした。又、かつて豊臣秀吉の後継を目前とし、秀頼誕生後に秀吉に謀反の疑いをかけられ出家させられた豊臣秀次。さらには切腹を要求され、一族ごと処刑されるという残忍な秀次事件によって家康側についた大名の存在も忘れてはいけません。さらには裏工作として家康はこの合戦に向け多くの書状を各大名に送っており、その書状はなんと約200通にも及ぶそうで、内容は秀頼ちゃんのため!とか、戦に勝ったら、いっぱい領土を与えちゃうよ!などなど。。。 小早川秀秋も内応していた1人であり、この裏切りこそが東軍の逆転劇となりました。
小早川秀秋の兵は約15000人と、西軍では宇喜多秀家に次いで多い将兵であり、この裏切りは痛い・・・ そんな小早川が陣を構えた松尾山へ向かって行ってみます。松尾山は石田三成の陣跡からかなり歩きます。さらに登山(標高293m)も待ち構えています。私が行った日は平日でしたが、誰一人として山で(実はもっと手前から)すれ違うことはありませんでした。
こちらが松尾山の山頂、小早川秀秋の陣跡です。戦況を見守っていた小早川秀秋はギリギリまで西軍として戦うか、裏切って東軍にまわるか悩んでいました。正午頃、なかなか決断しない小早川に対して業を煮やした家康は松尾山に向け鉄砲を撃ち放ちます。これによって小早川は東軍として戦うことを決意し山を降りたそうです。合戦中に火縄銃の音が実際ここまで届いたかどうかはわかりませんが、山の麓が比較的静かであれば聞こえたかもしれませんね。なにせ縦に横にと、すっげ〜歩きましたから。。
松尾山山頂の風景動画(22秒)
家康の巧みな裏工作によって小早川秀秋の裏切りをはじめ、多くの武将が東軍に寝返ったり、戦いに参加することなく離脱したりするなどし、東軍の勝利となりました。西軍の総大将である毛利輝元も結果、出る幕なしでした。大阪城にいた輝元も、まさか1日で合戦が終わることなど想像もしていなかったのでしょう。

へとへとになりながら関ヶ原駅へと向かう途中、大きな国道沿いに西首塚があります。看板には西首塚は合戦の戦死者、数千の首級を葬った塚であり、この上に江戸時代から十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、附近の民衆の手によって供養がされていると書いてあります。


岐阜県の観光