日本神話の国譲りに登場し、神代に創建されたとされる出雲大社や、山陰を代表する名湯の玉造温泉、美人の湯で知られる湯の川温泉など観光スポットが豊富な島根県。他にも現存天守の松江城に世界遺産の石見銀山に城下町、津和野の散策、出雲そば・スズキの奉書焼・へか焼き・芋煮などの美味しい郷土料理も盛りだくさんです。
<お土産>
出雲そば、しじみ系のもの、日本三大銘菓の風流堂の山川や彩雲堂の若草、あご野焼き、どじょう掬いまんじゅうなど。

出雲空港からJR松江駅まではバスで約30分1030円です。JR出雲市駅までは25分、720円です。お隣、鳥取県の米子空港からはバスで約45分、990円です。新幹線ではJR岡山駅経由のアクセスが便利です。
島根県一の繁華街は松江駅の北口から徒歩で10分程度の東本町あたりになります。市民憩いの?場でもある、カラコロ広場を中心とした京店商店街が一番栄えています。歓楽街はスナックなどが集まる伊勢宮町(ピンク円あたり)となりますが、どれも繁華街、歓楽街と呼べるほどのものでもありません。
写真の左手が島根一賑わいのある東本町です。有名なカラコロ広場?も見えます。向い側(写真右手)には、これまた有名なカラコロ工房があります。写ってませんが・・・
東本町はこんな感じです。実は夜もこんな感じです・・・ 一角には多くのスナックなども集まり、繁華街だけでなく歓楽街としての顔も覗かせます。
こちらは少し離れた(松江駅近く)伊勢宮町の歓楽街です。夜はこっちの方が人通りも多いようです。とにかく人がいないんで数名差なんですけど・・・

●出雲大社(いづもたいしゃ:いづもおおやしろ)
日本神話において国譲りの舞台となった出雲地方。かつて日本(葦原中国)を統治していた大国主大神(大国主:オオクニヌシ)が、国譲りの条件として建立されたとする出雲大社は、現在では縁結びの神様としても知られ、島根県を代表する観光スポットでもあります。

<住所>
島根県出雲市大社町杵築東195
<参拝時間>
6:00〜20:00

<アクセス>
一畑電車大社線の出雲大社前駅より徒歩約10分(参道まで5分程度)。松江駅からは約1時間半で、JR出雲市駅から一畑電車へ乗り換えます。
乗換駅のJR出雲市駅から直接出雲大社へ行くバスも運行しています。時間は約25分、520円で正門前を下車です。1つ先のバス停の出雲大社を下車すると、参道が省かれ本殿までの距離が短くなります。一畑電車は毎時1本程度(JR出雲市駅⇒出雲大社前駅まで約30分、490円)、JR出雲市駅からのバスは毎時2本程度で時間、運賃はそれほど差はありません。

出雲神話

(ここからは宮崎県・天岩戸神社と島根県・八重垣神社、鳥取県・白兎神社で紹介する日本神話の続きとなります)
八十神の求婚を断り、白兎を救ったオオナムヂ(後のオオクニヌシ)と結婚することにした八上姫(ヤガミヒメにヤガミヒメ)ですが、これに怒った兄弟らの八十神は、オオナムヂを殺すことを企てます。ある日、伯岐国の手間の山にオオナムヂを連れ出し、山上から猪を追い込むので下で受け止めてほしいと言いました。ところが、転がってきたのは猪ではなく火で真っ赤に焼けた大石でした。転がってきた焼石を抱きかかえたオオナムヂは焼き殺されてしまい、これを知った母神のサシクニワカヒメは高天原にいるカミムスビ(カムムスビ)に助けを求めます。カミムスビはキサガイヒメ・ウムギヒメの2柱を治療に向かわせ、オオナムヂは生き返ります。生き返ったことを知った八十神は、次に大木の割れ目にオオナムヂを入れて挟み殺してしまいますが、今度もまた母神が間一髪で発見し蘇生して生き返ります。このままでは危険だと母神は木国(木の国)のオオヤビコの所へオオナムヂを行かせますが、しつこく追いかけてきた八十神はオオナムヂを引き渡せと詰め寄ります。オオヤビコは、ここも危険だとオオナムヂを木の虚(洞)から逃がし、スサノオのいる根の堅州国(根之堅州國)に行かせ、ようやく八十神から逃げ切ることが出来ました。
この根の堅州国でオオナムヂはスサノオの娘のスセリビメ(須勢理毘売命)と出会い恋に落ちます。しかし、これを快く思わないスサノオは、オオナムヂに様々な嫌がらせを働きます。蛇がいる室屋に寝かさせられたり、翌日にはムカデと蜂のいる室屋に寝かされます。なんとかスセリビメの助けもあり難を逃れたオオナムヂ、野原ではスサノオが射放った鳴鏑(なりかぶら:鏑矢)を探すよう命じられ、オオナムヂが矢を探していると、スサノオは野原に火を放ちました。この時はネズミが現れて助けられます(穴に入って難を逃れます)。ある時、スサノオは自身の頭にいるシラミを取るようオオナムヂに命じます。
しかし、それはシラミではなくムカデでした。オオナムヂがスセリビメから渡された椋(むく)の実を噛み赤土を口に含んで吐き出すと、スサノオは、すっかりムカデを噛み砕いていると信じ込み、そのまま眠ってしまいました。スサノオが眠っているのを機に髪を柱に結びつけ、琴とスサノオの太刀と弓矢を持って2神は逃げ出します。なんとか髪をほどいて必死に二人を追いかけるスサノオは、葦原中国へ通じる黄泉比良坂(よもつひらさか)で立ち止まり二人に対し、その太刀と弓矢で八十神を追い払い、大国主となって葦原中国を統治し、宇迦の山の麓に立派な宮殿を建て幸せになれと叫びました。
八十神を追い払い、出雲の地でスセリビメと結婚することとなった大国主(オオナムヂ:オオクニヌシ)ですが、直前に以前契りを結んだヤガミヒメ(八上姫)と結婚します。この時の大国主はオオナムヂの名の他にヤチホコ(八千矛神)という名で古事記で語られています。ヤガミヒメはヤチホコとの間に子を授かりますが、スセリビメの嫉妬を恐れて子を置いて故郷へと帰ってしまっています。他にもヤチホコは高志国のいた美女のヌナカワヒメ(沼河比売)に惹かれ恋に落ちてしまいます。嫉妬したスセリビメに対しヤチホコは困り果て、スセリビメにその思いを歌で詠み大和国に旅立とうとします。そこでスセリビメはヤチホコに深い悲しみの歌を詠み返して二人の仲は元通りになったとされます。
ある時、蛾の衣服を着た神が小船に乗ってやってきました。大国主はその神に名前を尋ねますが答えがありません。ヒキガエルの多邇具久(タニグク)が、それなら案山子のクエビコ(久延毘古)が知っているであろうと言うのでクエビコに聞いてみると、その神はカミムスビ(神産巣日神:神皇産霊尊)の子の(日本書紀では高皇産霊尊の子)スクナビコナ(少名毘古那:須久那美迦微)だと教えてくれました。大国主がカミムスビを訪ねると、確かに自分の子のスクナビコナだと言いました。さらにカミムスビは大国主とスクナビコナとで力を合わせて国づくりをするよう命じました。
こうして2柱の国づくりが始まりましたが、途中でスクナビコナは常世国に去ってしまいます。大国主が困り果てていると、そこへオオモノヌシ(大物主:大国主神:日本書紀では大国主神の分身)が現れて私を大和国の東の山の上に祀れば一緒に国づくりをすると約束し、ようやく葦原中国の国づくりを終えたのでした。

大国主によって葦原中国は繁栄しましたが、高天原にいるアマテラス(天照大御神)は地上世界である葦原中国は自分の子が統治すべきだと突然言い出しました。そして子であるアメノオシホミミ(天忍穂耳命)を降臨させますが、アメノオシホミミは天の浮橋から地上を覗き、葦原中国のあまりの騒がしさに手に負えないと、再び高天原へ帰ってしまいました。アマテラスはタカミムスビ(高木神:高御産巣日神:高皇産霊尊)や知恵の神であるオモイカネ(思金神:思兼神)ら八百万の神々を集め、どうしたものかと相談します。その結果、使者としてアメノホヒ(天穂日命:天菩比神)が派遣されることに決まりました。しかしその後、アメノホヒからの連絡は三年経ってもなく、結局のところ大国主に媚びてしまい、この計画も失敗に終わります。日本書紀ではこの後にオホセヒノミクマノウシ(大背飯三熊之大人)を使者として派遣するも、やはり帰って来ず。再び八百万の神々と相談したアマテラスは、続いてアメノワカヒコ(天若日子:天稚彦)を使者として派遣します。ところがアメノワカヒコは大国主の娘のシタテルヒメ(下照比売命:下照姫)と結婚し、自分自身が葦原中国を治めようと企てます。八年経っても連絡のない高天原では業を煮やし、キジ(雉)のナキメ(鳴女)にアメノワカヒコに使命を果たすよう説得へと向かわせます。ナキメが鳴いて再度、荒ぶる神々を黙らせるよう使命を果たせと説得すると、アメノワカヒコはアマノサグメ(天佐具賣)に鳴き声が不吉だとそそのかされ、ナキメを弓で殺してしまいました。ナキメの胸を射抜いた矢は高天原に届き、タカミムスビはその矢を取って、アメノワカヒコに邪心があれば当たれといって射返しました。アメノワカヒコはその矢を胸に受けて死んでしまいます。

シタテルヒメの泣き声が高天原まで届くと、父のアマツクニタマ(天国津玉神)は喪屋を建て、アメノワカヒコの葬儀は家族とともに盛大に行われました。この時、葬儀に訪れていた大国主の子でシタテルヒメの兄でもあるアヂスキタカヒコネ(味耜高彦根命)が、死んだアメノワカヒコによく似ていたため、アメノワカヒコの親たちは、子が生きていたと言って喜びアヂスキタカヒコネに抱きつきました。アヂスキタカヒコネは死人と見間違えるなと怒り、剣を抜いて喪屋を蹴り飛ばしてしまったそうです。
度重なって計画は失敗しますが、再び高天原からは剣の神、タケミカヅチ(建御雷神:武甕槌)と船の神、アメノトリフネ(天鳥船神)が葦原中国へと派遣されます。二人が出雲国の浜に降り立つと、タケミカヅチは十拳剣を逆さに立て剣の先にあぐらをかいて座り、葦原中国はアマテラスの子が治めるべきであり、大国主に国を譲るよう意見します。大国主は息子のヤエコトシロヌシ(事代主神:言代主神)に聞いてほしいと答えを濁します。早速、釣りをしていたヤエコトシロヌシの元へ行き、国譲りについて問いただすと、ヤエコトシロヌシは承諾し、そのまま隠れてしまいました。
すると今度は大国主が、もう一人の息子であるタケミナカタ(建御名方神)にも聞いてくれと言い出します。そこへやって来たタケミナカタは、力比べを申し出てタケミカヅチの手を掴みました。すると、掴まれたタケミカヅチの手は氷や剣に変化し、最後にはタケミナカタの手を握り潰して投げ飛ばしました。逃げ出したタケミナカタですが、タケミカヅチが追いつくと、タケミナカタは殺さないでくれと許しを乞い、国譲りを承諾することにしました。こうして大国主も国譲りを承諾しますが、その条件として高くそびえる宮殿を建てて、そこに住まわして欲しいと言いました。それが現在の出雲大社となります。尚、現在の出雲大社の本殿は、高さが約24mありますが、かつては平安時代の頃でも48m、それ以前には96mもあったと伝わります。

その後の葦原中国は、再びアメノオシホミミに降臨の命が下されますが、その間に子を授かったため、子であるニニギ(瓊瓊杵尊:瓊々杵尊)が天降りすることとなりました(天孫降臨)。
全国的に見ても珍しい下り参道を抜けて本殿へと向かいます。鳥居では必ず一礼し、参道では必ず端(真ん中以外)を歩くようにして下さい。途中にある祓社では身心を祓い清め、この先にある手水舎では手・口を清めることも忘れずに。
銅鳥居の先に拝殿、本殿があります。この手前に手水舎がありますので、身も心も清めておいてください。
写真トップが拝殿で昭和34年に建てられたもの。右の写真は拝殿奥の端垣にある八足門で、この奥に玉垣があり、その囲いの中に本殿があります。一般人が通常入れるのは八足門の前までです。本殿の垣のまわりにある摂末社は左回りで参拝するのが正式な参拝方法となっています。尚、出雲大社での参拝方法は他の神社と違い、各社殿も含め全て二拝四拍手一拝(二礼四拍手一礼)となっていますので注意です。ここから左手に進み、荒垣の外に出ると大注連縄が有名な神楽殿があります。
日本最古の神社建築様式である大社造の御本殿は1744年に建てられたもので国宝です。現在は高さ24mしか?ありませんが、かつてはもっと高かったらしいです。出雲大社の本殿内部はコの字のようになっていて大国主が祀られている神座は、参拝者側ではなく、横(西向き)になっているそうです。理由には多くの説があって、調べれば調べるほど謎の多い出雲大社、こうやって神話の世界に思いを馳せるのも楽しいですね。
出雲神話の内容はよく知らなくても、出雲大社が縁結びの神様がいるということだけは誰でも知っているくらい有名ですね。出雲大社では、定番のお守りをはじめ、縁結びグッズを豊富に取り扱っております。
こちらは少しだけ離れた場所にある神楽殿。出雲大社教の教化のために大国主を本殿とは別に祀ったのがこの神楽殿だそうです。大きな注連縄(しめなわ)が有名な出雲大社ですが、特にこの神楽殿の大注連縄がデカイ!
重さが4.4tもあるという大注連縄は、一般的な神社とは違って逆の張り方(左から始まり、向かって右で終わります)になっています。注連縄の役割は鳥居などのように、結界をつくるためとも言われていますが、アマテラスが再び天岩戸に隠れぬようにといった意もあるらしいです。

●松江城(まつえじょう)
国内にわずか12ヶ所しかない現存12天守の1つ松江城。かつて織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた堀尾吉晴によって1611年に築かれ、以来、堀尾氏3代、京極氏の治政を経て1638年からは松平氏が城主となり、その間一度も戦乱に巻き込まれることもなく明治維新を迎えました。

<住所>
島根県松江市殿町1-5
<登閣時間>
8:30〜18:30 登閣料560円。小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、武家屋敷などとの共通券もあり。

<アクセス>
JR松江駅から循環バス(レイクラインバス)で約10分、200円、松江城(大手前)を下車。
レトロな内外装のレイクラインバス。松江城だけでなく、 松江しんじ湖温泉駅や、夕日スポットでもあり宍道湖うさぎのいる県立美術館(ちょっと遠回りですが・・)にもアクセスすることができます。
『天下分け目の天王山』や『三日天下』などの語を生んだ天王山の戦い。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が信長の仇討ちとして明智光秀と戦った山崎の戦い(天王山の戦い)でも活躍し、松江開府の祖でもある堀尾吉晴像が大手門跡(大手木戸門)の前にあります。
馬溜(うまだまり)と呼ばれるこの空間は、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際に隊形を整える機能を果たしていたようです。
松江城は1607年から足かけ5年の歳月を費やして堀尾吉晴によって築かれたそうです。写真左側にある櫓は、かつて城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていたと思われる太鼓櫓です。
一ノ門から先が有料となっています。それにしても立派な石垣です。松江城は築城に5年を費やしましたが、この内の3年は石垣の積み上げだったそうですよ。
見学は地階の食料貯蔵のためにつくられた穴倉から見ていきます。地階には鯱は梁、鬼板等の築城時の材料が、上の階では松江城の資料が少しだけ展示されています。現存天守なので仕方ありませんね。
石落としや狭間(さま)は定番ですが、やっぱり現存天守のものは、これが当時のものかと思えば感動が違ってきます。
急勾配の階段も現存天守ならではのもの。階段の材木には桐が使われているそうで、珍しいそうです。
最上階の5階部分です。天狗の間と呼ばれるこの間は、四方が全て見渡せるようになっていて、松江城の天守の大きな特徴でもあります。吹き抜ける風がとっても気持ちいいんです。冬は地獄ですが・・・ お城の天守には外側に廻縁があるものや、中には外にも出られない天守もありますが、やっぱりこの望楼式が観光客にとっては最強です。
見晴らしも松江市内や宍道湖が見えて、そこそこいいです。ちなみに高さは30m程だそうです。
横からも撮影。いろんなお城をめぐると、怖い井戸や池の話、人柱伝説を聞きますが、こちらの松江城の人柱伝説もまた怖いんです。なんでも、築城時に天守台の石垣が度々崩れ落ち、工事が進まなくなった為に、美人の娘がさらわれて生贄になったらしいです。その後、天守では悲しい女性の泣き声がどこからともなく・・・的な話です。
城内には松江藩の初代藩主でもあった松平直政を祀った松江神社もあります。昭和になってから城主の堀尾吉晴や家康まで一緒に祀られています。権現造の社殿は拝殿が1661年、本殿が1628年に建てられたそうです。
松江では、松江城を囲む堀を小舟でめぐる『堀川めぐり』も人気の観光で、ここからカラコロ広場あたりりまで行って戻ってくるという長いコース(約3.7km約55分)となってます。PS.カラコロ広場からの発着もあります。
他にも城周辺には、城下町の風情を残す塩見縄手の道中にある写真の武家屋敷や、小泉八雲記念館に小泉八雲旧居などのミニスポットも点在しています。

●石見銀山(いわみぎんざん)
世界遺産として登録もされている石見銀山は、約400年にわたって採掘された銀鉱山です。室町時代には本格的に開発され、17世紀前半には世界の銀産出量の約3分の1が日本銀を占め、その大部分が石見銀であったとされ、世界経済にも大きな影響を与えました。

<住所>
島根県大田市大森町イ826
<公開時間>
9:00〜17:00(季節変動あり)年末年始は休み。410円(龍源寺間歩)。

<アクセス>
アクセス的には最寄駅はJR山陰本線の大田市駅となります。松江駅からは約90分、1140円です。大田市駅からはバスで約30分、670円、大森を下車です。少し手前の大森代官所跡(石見銀山資料館)までは約30分、630円(大森の町並散策が出来ます)。そして、代官所跡から龍源寺間歩までは徒歩約1時間。石見銀山公園にある観光案内所にはレンタサイクルもあります(電動もあり)。他、ベロタクシーも待機しています。
石見銀山には間歩(まぶ)と呼ばれる坑道が多く存在しますが、現在公開されているものは龍源寺間歩と予約制ガイド付の大久保間歩のみとなっています。要予約の大久保間歩ツアーの場合は、世界遺産センターが集合場所になっています。マイカー・レンタカーでお越しの方は、銀山公園の駐車場が龍源寺間歩に近く便利です。収容台数の多い世界遺産センターとなり石見銀山駐車場は少し離れいて、ここに駐車される場合は、バスで銀山公園近くの大森まで移動します。少し離れますが、大森より先の大森代官所跡を下車すれば、当時の面影そのままの大森町の町並も見学することが出来ます。体力と時間があればこの大森代官所跡あたりから歩くのがオススメです。

詳しいマップは大田市観光協会の『街道歩きマップ』が見やすいですよ。
私の場合は銀山公園で電動のレンタル自転車を借りて、龍源寺間歩とは逆方向の大森の町並みを最初に見学することにしました。
大森代官所跡に到着です。徒歩だと約20分、0.8kmの道のりです。この代官所跡には明治35年に迩摩郡役所(明治 35 年)が建てられ現在は石見銀山資料館(500円)となっています。尚、館内は撮影不可です。石見銀山遺跡とその文化的景観は世界遺産として登録されていて、実はこの代官所跡も世界遺産(構成資産)なんですよ。
再び、銀山公園まで戻ります。ちなみに銀山公園から(石見銀山資料館方向)は下りで、帰り(龍源寺間歩方向)は上りとなります。レンタサイクルは電動もあるのですが、そこそこの勾配なので断然、電動アシスト付きのレンタルをオススメします。
途中には1860年に再建された大森代官所の祈願寺、観世音寺があります。他にも石見銀山には多くの寺院や神社、古い商家や武家屋敷など見所満載です。
銀山公園から龍源寺間歩へと向かいます。最初は平坦ですが、徐々に上り坂となっていきます。電動ではない自転車の人は、途中でバテて押しながら歩いている人もいました。つまり、断然に電動アシスト付がオススメなんです。ちなみに全体的には自転車を利用せずに歩いている人が多かったです。徒歩の場合は約40分、2.3kmの道のりです。
道中、時間があればこちらの清水谷製錬所跡にも立ち寄ってみましょう。 江戸幕府による支配が終わり、明治時代前半頃の石見銀山では、極一部の既存の坑道を採掘するといった地元住民による小規模な鉱山経営が行われていたそうで、この清水谷製錬所跡は明治時代の遺構です。
清水谷製錬所では鉱石の品質が予想よりも悪く、設備の製錬能力も充分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に開始からわずか1年半で操業停止となったそうです。
自転車も行けるのはここまでです。道は右手に行って、坑道を抜けて左側の道から戻ってくるみたいです。
右の建物で料金を払って探検開始です。左側に見える小さい穴が入口です。坑道は一方通行となっています。
なんか、思っていたよりも絵が地味です。ノミを片手にコツコツと岩を掘った跡だけが奥まで永遠に続きます。龍源寺間歩は江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、御直山と呼ばれた代官所直営の操業地にあった坑道で、御直山の中でも銀山を代表する五か山の1つなんだそうです。
メインとなる坑道の横には人一人がやっと通れるような小さな坑道(ひ押し坑)が幾つかあるんですが、入れないようになっています。まぁ、入ったら戻ってこれないんでしょうけど・・・ 写真はメインとなる坑道ですが、ここから先は幅も狭く、落盤もあることから入ることが出来ません。
思ったよりも、あっという間に終わってしまった坑道。龍源寺間歩は、大久保間歩に次いで長く、約630mもありますが、見学できるのは約160m程度で、そこから連絡通路(普通のトンネルみたいな感じ)が100m程度続きます。外に出ると、あちこちに坑道跡を見つけることが出来ます。
帰り道にある佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)。鉱山の守り神である金山彦神を祀り、鉱夫や村人からは山神(さんじん)さんと呼ばれ親しまれていたそうです。
本殿は火災による消失後、1819年に再建されたものらしい。
長い石段を避けたい方は迂回路もあるらしい。それにしても城跡に見えるくらい立派な石垣です。
銀山公園に戻り、ここから徒歩1〜2分のところに五百羅漢が有名な羅漢寺があります。こちらで500円を払って、本堂参拝後に道路を挟んだ向かい側の五百羅漢を拝みに行きます。
銀山で亡くなった鉱夫を供養するために彫られた羅漢像が色々な表情で迎えてくれます。けど、ちょっと拝観料高めです。
一応、この羅漢寺も世界遺産の構成資産となっています。羅漢像はそれぞれ左窟、中央窟、右窟の三つの岩窟に分かれて安置されています。尚、残念ながら羅漢像は撮影禁止となっています。
こちらは石見銀山世界遺産センターです。最後に来てしまいましたが、本来であれば、最初にここで石見銀山について勉強してから行くのがベストでしょう。
小さい展示室ですが中身はかなり濃いです。銀を取り出す灰吹法や銀山争奪戦の歴史など、知らないことばかりで勉強になります。入館料も300円とお手頃だし、30kgの銀塊も素手で持てるよ。


島根県の観光