日本最大の湖、琵琶湖を持つ滋賀県は古くは近江八景として、現在では竹生島の沈影、海津大崎の岩礁、安土八幡の水郷などの琵琶湖八景として多くの景勝地があります。琵琶湖以外にも天台宗総本山の延暦寺や天台寺門宗総本山の三井寺、紫式部ゆかりの石山寺などの名立たる古刹が存在します。琵琶湖八景の彦根の古城、彦根城は現存12天守のうちの1つでもありこちらも、見逃せない観光名所です。

又、豊臣秀吉ゆかりの地でもある長浜周辺には、賤ヶ岳古戦場や長浜城、そして当時の面影が残る城下町があり、他にも織田信長の築いた安土城跡や石田三成の生誕地など歴史ファンにはこの一帯も人気の観光スポットです。

滋賀県の繁華街は大津〜浜大津、又は草津周辺になります。繁華街と呼べるほどの賑わいはありませんが、京都にも近いので、観光やショッピングにへと便利な場所ですね。ちなみに京都から大津、草津までは、鉄道でそれぞれ10分、20分程度です。又、新幹線も停車する米原駅から彦根城のある彦根駅までは5分程度、草津、大津までは、それぞれ30分、40分程度です。

<お土産>
グルメではもろこの甘露煮や鯖そうめん、近江牛などなどありますが、お土産となると鮒寿司くらいしか思い浮かびません・・
似たり寄ったりですが滋賀県の繁華街・歓楽街(雄琴を含む)は浜大津駅周辺となります。賑わいはありませんが交通量は比較的あります。

そして、滋賀県にも路面電車が走っています。写真は京阪京津線の路面電車で奥に見えるのが浜大津駅です。路面電車といえばレールの上を可愛らしいバスサイズの車両が走っているイメージですが、ここでは、普通の電車サイズの車両が路面を堂々と走行しています。通行人の横を通り抜ける光景は恐怖さえ感じます。

●延暦寺(えんりゃくじ)
比叡山延暦寺は、788年伝教大師最澄上人が国法的人材の養成と国民の幸福をお祈りする祈願の道場としたことに始ります。その後、幾多の修行僧が籠山修行されましたが、特に鎌倉時代の日本仏教各宗派を開いた祖師たちが輩出し大衆教化に専念して、仏教文化の華をさかせました。中でも浄土宗の開祖法然上人、浄土真宗の親鸞聖人、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、日蓮宗の日蓮聖人などは、この山で血のにじみでるような命がけの修行のすえ、自己の信ずる道に従って一宗一派を開いたのです。
<アクセス>
延暦寺は比叡山全体が境内となり、主に東塔、西塔、横川の3つのエリアに分かれ、全てが世界遺産となっています。電車でのアクセスでは琵琶湖方面からはJR湖西線の比叡山坂本駅、又は京阪電鉄の坂本駅から連絡バス(それぞれ220円、200円。坂本駅からは徒歩5分程度)で坂本ケーブル(片道840円 / 往復1570円)に乗り換えます。京都方面からは叡山電鉄の八瀬(やせ)比叡山口駅から叡山ケーブル(片道530円 / 往復1040円)・ロープウェイ(片道310円 / 往復600円)に乗り換えます。叡山ケーブルを利用した場合、比叡山の山頂からシャトルバス(1日フリー800円)にて各エリアへ向かいます。坂本ケーブルの場合は徒歩20分程度で東塔エリアとなり他のエリアはシャトルバスを利用します。いずれにせよ割引の付いたセット券がお徳です。車の場合はアクセスする方面により奥比叡ドライブウェイ、比叡山ドライブウェイを使用。奥比叡DW⇒延暦寺⇒比叡DWと通り抜ける場合と、比叡DW⇒延暦寺⇒比叡DWと、来た場所へ戻ってくるかでも料金は変わります。おおよそ2〜3千円みておいてください。ちなみに主要の3エリアは奥比叡DW側にあります。
<住所>
滋賀県大津市坂本本町4220

<拝観料>
東塔・西塔・横川共通拝観券550円。国宝殿拝観450円。国宝殿は共通券1000円と割引無しです。拝観時間9:00〜16:00(エリア・季節により変動あり)

ケーブルカーを利用せずに登山という手もあります。標高848mとはいえ2時間以上かかるため登山が目的でない方は避けたほうがいいでしょう・・・
比叡山の観光のメインとなるのが東塔(とうとう)です。東塔には1200年間絶えたことのない不滅の法灯が輝く根本中堂(国宝)をはじめ、各祖師像を安置した大講堂や比叡山中一番清浄な浄土院その他、戒壇院・阿弥陀堂・文殊楼などがあります。
延暦寺は平安時代の僧侶、最澄により788年に最澄が一乗止観院(小規模な寺院)を建てたのがはじまりで、日本天台宗の本山寺院です。高野山金剛峯寺と並び平安仏教の中心で、唐に渡航するなど最澄は熱心に禅や密教、戒律、天台教学などの思想を学んだとされます。

写真は山門となる文殊楼(もんじゅろう)で1668年に焼失し再建されたものです。
こちらは焼失後、1634年に建築された大講堂で重要文化財にも指定されています。

延暦寺の伽藍は何度か焼失していますが、特に1571年の織田信長による比叡山焼き討ちでは大半の建造物が焼失してしまっています。そのため境内の建物は皆、どことなく綺麗で新しく、厳かな雰囲気・・・といった感じはありません。
比叡山焼き討ち
延暦寺などの大寺院は常に宗教対立であったり盗賊から狙われるなどの危険に晒されています。こうしたことから次第に寺院側も武装化するようになっていき、室町幕府6代将軍の足利義教との抗争後はさらにその規模も増していきます。やがて延暦寺の武力は興福寺などの寺院と並び相当な規模(寺社勢力)となり、朝廷並みの権力すら備わっていきました。織田信長が天下統一を目指し近江まで攻め入ると、幕府の権力衰退を狙い殿中御掟9箇条(将軍の行動を制約)を突きつけるなどし室町幕府15代将軍の足利義昭と敵対関係になります。当時、僧兵4000人といわれる延暦寺もまた義昭側に味方したために敵対することとなりました。義昭は朝倉義景、浅井長政、三好三人衆、毛利輝元、松永久秀、六角義賢、本願寺・・・ 上杉謙信や武田信玄さえも味方に付け反信長派による信長包囲網を構築します。そんな中、桶狭間の戦いから勢いに乗る信長はこの包囲網を突破するための1つの策として1571年、比叡山焼き討ちを行いました。信長は延暦寺に対し再三の降伏勧告を行ったとはいえ、その戦いは女、子供ですら一人残らず首を刎ねるなどの残虐なものであったそうです。その後、義昭は降伏し京都追放となりました。比叡山焼き討ちの後、信長の家臣であった明智光秀に近江国滋賀郡が与えられますが、そもそも明智光秀は比叡山焼き討ちには反対であり、皮肉にも本能寺の変(理由は今も謎)で光秀によって主君である信長は討たれることとなります。
人々は古来より山や森、川などの自然を、神の宿る場所として崇め、険しい山へと登るという行為においては修行の意味合いがありました。これら日本古来からある自然崇拝(神道)と、伝来してきた仏教とが結びつき(神仏習合)、全国には比叡山延暦寺のように正式名称が○○山○○寺といった寺院が多くあります。又、明治時代には神仏習合の慣習を禁止した神仏分離によって廃仏毀釈運動がおこりました。寺院などでよく首のない石仏を多く見かけるのはこのためです。

写真は大講堂の前にある鐘楼で、除夜の鐘としてテレビ出演も多い売れっ子。
写真トップにもある延暦寺の総本堂、根本中堂(こんぽんちゅうどう)です。堂内は全て撮影禁止です。織田信長による焼き討ちの後、1642年に徳川家光によって再建された根本中堂は国宝にも指定され、本尊には薬師如来立像を祀っていますが残念ながら秘仏。寺院の順路の基本でもある右まわりで廻廊(重文)を進めば、内陣には不滅の法灯がほんのりと灯り神秘的な空間(堂内はかなり暗いです)が広がっています。なんと、この堂内を照らす不滅の法灯(本尊厨子前の灯篭)は創建以来1200年以上も灯り続けているそうです。正確には焼き討ちの後に一度消えたので、山形県の立石寺に分灯されていたものを再び分灯したそうです。
かつては政所、食堂ともいわれた大黒堂。本尊には大黒天、毘沙門天、弁財天の顔をもつ三面大黒天を祀り、商売繁盛、五穀豊穣にご利益があり出世大黒天とも呼ばれます。
こちらは僧侶が大乗戒(規律)を受ける比叡山中で最も重要なお堂、戒壇院です。創建は828年と古く(1678年に再建)、重要文化財にも指定されています。
法華総持院東塔・阿弥陀堂までの石段。延暦寺は境内も広く、ここへ来て階段・・・ と、断念して引き返す人もいました(笑)
右手には本尊に大日如来を祀る法華総持院東塔と、左手には彫刻界の権威者、内藤光石氏によって彫られた丈六の阿弥陀仏坐像を本尊として祀る阿弥陀堂があります。
近くには日本庭園でよく見かける水琴窟(すいきんくつ)があります。何気に今まで聞いてきた水琴窟の中では立派な音色・・・というか大きな音でした。
東塔とは一転して静寂の地であるのがこの延暦寺西塔(さいとう)です。朱の色もあざやかな弁慶の、にない堂(常行堂・法華堂)や椿堂、西塔の中心本堂である鎌倉建築の釈迦堂、また何年もの間、風雪にたえた弥勤の石仏などあります。その他一般の人達の研修道場居士林もあります。あの有名な武蔵坊弁慶が住んでいたのもこの地域です。東塔から車で約5分、徒歩約20分。
伝教大師ご自作の釈迦如来を祀った釈迦堂(転法輪堂)。織田信長による比叡山焼き討ちの後、豊臣秀吉が1595年に三井寺(園城寺)の金堂を移築したものです。鎌倉時代の建物で比叡山最古(1347年建立)の木造建築で重要文化財となっています。
常行三昧の修業の道場、常行堂で阿弥陀如来を本尊としています。渡り廊下によって法華堂とつながっています。

ちなみに常行三昧とは、90日間阿弥陀如来の周囲を念仏を唱えながら歩き続ける修行。横になれないので立って毎日仮眠・・・
常行堂の右側にあるのが法華三昧の修業の道場、法華堂です。普賢菩薩を本尊としています。常行堂とは渡り廊下でつながれていて全体を、にない堂(重文)とも呼びます。

ちなみに法華三昧(常坐三昧)とは、90日間ひたすら坐禅を続ける修行。毎日座ったまま仮眠・・・
京都の妙法院を創建した恵亮和尚を本尊とする恵亮堂(えりょうどう)。大楽大師と称し当時お山の中では修力霊験に最も優れた和尚だったそうです。
お釈迦様が入滅する際に残したとされる足跡、全国各地にもあるこの足形は仏足石(ぶっそくせき)と呼ばれます。
釈迦堂と鐘楼の間の小道を右手に進むと、経典を納めた仏塔の原形、六所宝塔の一つである(そうりんとう) があります。明治28年の建立ですが何気に重要文化財だったりします。
釈迦堂と鐘楼の間の小道を左手に進めみ奥比叡ドライブウェイすら横断し、森の中をひたすら直進すれば瑠璃堂(重文)があります。瑠璃堂は境内の案内地図で見ると近いように見えますが、何もない森の中を歩いて15分程度はかかりますので注意です。
信長による比叡山焼き討ちの時、唯一被害を免れた室町時代末期の建物、瑠璃堂です。

ここからさらに奥へと進めば若き法然上人の修行の地、黒谷青龍寺もありますが、1km近く歩くことになります。当時の修行は想像を絶する厳しさだったようで、断食や断水、ひたすら歩いて巡礼を行う百日回峰行、千日回峰行、12年間山に籠る修行(12年籠山行)など、これらの厳しい修行は現在も続けられているそうです。
千手観音を本尊とし、その昔に聖徳太子が登山されたおり椿の杖をさして置かれたのに根が生えて育ったところから椿堂と名が付いています。少し歩きますが椿堂の先には伝教大師の御廟所のある浄土院もあります。
比叡山の中でいちばん北に位置する延暦寺横川(よこかわ)には聖観世音菩薩を御本尊とする舞台づくりの横川中堂を中心におみくじの元祖・おつけものの元祖と言われる元三大師堂(四季講堂)、また念仏思想発祥の基となった恵心堂などがあります。
野鳥の声を聞きながら西国三十三所観音石仏を巡られるのも都会では味わえない趣を残している地域です。東塔から車で約15分、徒歩約1時間。
横川の本堂にあたるのが、この横川中堂。昭和46年に原形に鉄筋コンクリートで復元された新しいお堂です。
慈覚大師(円仁)創始の写経を納める塔、根本如法塔です。つまり、塔中に仏教の経典を書写して、永く後世に伝えるため安置し祈念する塔です。
こちらは元三大師堂(四季講堂)。四季に法華経を講じたので四季講堂とも呼ばれます。現代のおみくじの形は、元三慈恵大師良源が考え出したと言われており、この元三大師堂はおみくじ発祥の地なんだそうです。
こちらは恵心堂。横川は念仏浄土門の発祥の地として知られ、恵心僧都はこのお堂で初めて念仏三昧に入られました。

●三井寺(園城寺)
三井寺(みいでら)は正式には園城寺(おんじょうじ)と称し、創建以来1300年の歴史と数数の史実や伝説に満ちあふれた巨刹です。平安時代には四箇大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の一つに数えられ、現在も山岳寺院として長等山山腹に広大な境内地を有しています。

<住所>
滋賀県大津市園城寺町246
<拝観時間>
8:00〜17:00 500円。

<アクセス>
京阪電鉄の三井寺駅より徒歩約10分。滋賀県の県下一の繁華街でもある浜大津からも近く、京都駅からでも30分程度でアクセスすることができます。
なんとも立派な仁王門(j重文)が出迎えてくれます。こちらの仁王門(大門)は元は同県の常楽寺に1452年に建てられ、次いで伏見城へ、そして1601年に徳川家康の寄進によって園城寺へ移されました。
こちらは釈迦堂(食堂)になります。建築年代は室町時代初期と推定され、重要文化財となっています。
こちらの三井寺には国宝、重要文化財に指定されている建物が紹介しきれない(手抜きですが・・)ほど多く、全てをじっくり見ようと思ったらかなりの時間を費やします。
写真トップにあるのが、仁王門から真っ直ぐ参道を進んだ場所にある金堂です。1599年に豊臣秀吉の夫人、北政所(きたのまんどころ:高台院:ねね)によって建てられたもので国宝です。寺の基本ルール?でもある右回りで堂内を巡れば大小様々、立派な仏像を拝むことができます。

右の写真は金堂近くにある近江八景の一つでもある鐘楼、三井の晩鐘です。こちらも重要文化財です
さらに順路?は閼伽井屋、弁慶鐘、写真の一切経蔵と続き、どれも重要文化財に指定されてます。
経蔵をすぎて見えてくるのが立派な三重塔。この三重塔は、もと大和国(奈良県)の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を1601年に移したもので、しつこいようですが重要文化財です。
他の建造物は、あまりにも国指定文化財の数が多すぎて省略します。ここ三井寺は桜や紅葉の名所でもあります。なんせ国宝、重文が多く、絵になる光景が多いですからねぇ。
こちらは少し(かなり?)離れた場所にある国宝の新羅善神堂で1339年に足利尊氏が再建したものです。源頼義の子、義光がここで元服し新羅三郎義光と名乗ったのは有名。非公開ですが、裏手にまわると外観がわりと見えます。園城寺には他にも光浄院、勧学院が国宝に指定されていますが残念ながら非公開です。

●石山寺(いしやまでら)
聖武天皇の勅願により747年に良弁(ろうべん)によって開基され、歴朝の尊崇あつい由緒ある真言宗の寺院です。本堂は1078年に落雷半焼失も1096年に再建され、内陣は平安時代中期の建築、外陣(礼堂:らいどう)は1602年に淀殿の寄進により増築されたといわれています。滋賀県最古の木造建築物として多宝塔とともに国宝に指定されています。

<住所>
滋賀県大津市石山寺1-1-1
<拝観時間>
8:00〜16:30 入山料500円。

<アクセス>
京阪石山坂本線の石山寺駅を下車し、徒歩約10分。浜大津駅からは約20分、230円です。
入口でもある東大門で、現在の門は鎌倉時代の初期(1190年)の建築で、桃山時代の1596〜1615年にかなり大規模な修理改造が加えられています。重要文化財にも指定されている東大門は、建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門として相応しい姿をしています。
広い参道には春が見頃となる霧島つつじや桜が植えられ、秋には紅葉を楽しむことができます。
手水舎の手前には、くぐり岩があります。心を浄化するための胎内くぐりのようなものですが、一瞬だけ四つん這い状態になるので足腰弱い人はやめておきましょう・・・
1773年に建立された毘沙門堂。兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)を本尊としています。堂中を覗くと凛々しい毘沙門天(重文)がいらっしゃいました。
1602年建立の蓮如堂で、この建物も重要文化財に指定されています。蓮如は浄土真宗の僧ですが、元は三十八所権現社の拝殿として建てられたものを、蓮如の生母が石山観音の化身といわれていることから、後に蓮如上人が祀られるようになりました。とにかく石山寺は境内も広く、国宝に重文がゴロゴロとしています。
毘沙門堂、重文の蓮如堂の先には石山寺の「石山」の起こりとなった硅灰石(けいかいせき)が見えてきます。硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用のために変質したものです。この作用によって通常は大理石となりますが、石山寺のように雄大な硅灰石となっているのは大変珍しいものだそうです。
続いては写真トップにある舞台造の美しい本堂で国宝にもなっています。石山寺の建立は古く、本堂は761〜762年にかけて造東大寺司(ぞうとうだいじし)によって拡張されたことが正倉院文書に見えます。その後、1078年に焼失し1096年に再建されたのが現在の本堂です。本尊は如意輪観世音菩薩で秘仏(御開扉は33年毎)となっています。本堂の脇には紫式部のいる源氏の間があります。何故、紫式部?それは後ほど。
本堂を出て少しだけ坂を上ったところにある三十八所権現社本殿。見事な硅灰石の上に建っていて、一応は重要文化財なのですが、大半の訪問者はチラ見して通り過ぎていきます。石山寺の鎮守として1602年に建立されたものです。
続いて経蔵。こちらもパッとしない倉なのですが、一応は重文です。桃山時代に建立された高床の校倉で、かつては重要な経典や聖教類などが収蔵されていました。県下で最古の校倉造の遺構とのことです。
源頼朝の寄進で1194年に建立された日本最古の多宝塔で国宝に指定されています。日本三大多宝塔の1つだそうで、塔内には同時期に製作された真っ黒な本尊、大日如来坐像が安置されています。
平安時代、紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をして、あの有名な源氏物語の構想を練っていたそうです。ちなみに、この先、丘を下ってしまうと鐘楼→御影堂→大黒天堂の帰路とは別の順路になってしまい注意です。丘を下ってしまう場合は、マップを見ながら再び本堂付近から帰路に合流しましょう。
鎌倉時代後期のものと考えられる鐘楼(しょうろう)で重要文化財です。縁下と上層の軒下には三手先木組をもっていますが、とくに斜めにでる尾垂木のないのは、珍しい特徴とのこと。つまり、深い軒下でありながら屋根支えている部材が少ないんだぜ!みたいな感じ?
室町時代に建立された真言宗の開祖、弘法大師(中央)と石山寺開基の良弁僧正(右側)、石山寺第三代座主淳祐内供(左側)の遺影(御影)を安置する御影堂(みえいどう)で、こちらも重要文化財です。
こちらの宝篋印塔は、四方に四国八十八ヶ所霊場の土が埋められており、これを廻ると八十八ヶ所を巡る同じ功徳があるらしい。そんな楽してよいのだろうか・・・

他にも境内には本堂裏手に子育観音、月見亭や美術品などを展示している豊浄殿(有料)、めかくし石とか、なんやら供養塔だの宝塔など、とにかく石山寺には国宝、重文以外にもミニスポットが満載?です。
帰路の最後にあるのが大黒天堂です。石山寺大黒天は万寿元年(950年前)に、ご本尊は3人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。室町時代(約650年前)秘仏ご本尊の前にお前立ちの仏様が建立されました。残念ながら本尊となる秘仏、拳印開運大黒天は12年毎の御開扉の時しか拝むことはできません。
花の寺としても有名な石山寺。おまけに恐ろしく広い境内なので、見学時間は1〜2時間以上はみておきましょう。

●彦根城(ひこねじょう)
井伊直政(いいなおまさ)が関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城、佐和山城を与えられ移ります。その後、直政は城を彦根山に移そうと考えましたが実現せずに病死します。1603年、その子である直継は父の意志をうけ彦根城の築城に着手しました。そして、1622年に現在の彦根城が完成します。全国に12しかない現存天守であることから、多くは重要文化財に指定され、天守閣は国宝です。

<住所>
滋賀県彦根市金亀町1-1
<入場料>
600円 8:30〜17:00

<アクセス>
新幹線の停車駅でもある米原駅から東海道本線で1駅180円です。彦根駅からは徒歩10分程度。
琵琶湖の東側に彦根城はあります。、彦根城は彦根駅から歩いて10分程度の場所にあります。ほぼ直進なので迷うことはないでしょう。駅から歩いて護国神社に突き当たり左折、あとは道なりです。琵琶湖までも歩いてすぐですが、観光スポット的なものは特にありません。
駅前には井伊直政の銅像があります。

井伊直政
生涯、家康の右腕として活躍した井伊直政。朱色の軍装を身にまとった部隊を編成し、井伊の赤備えと呼ばれ恐れられ、戦の時には常に陣で指揮をとることはなく、自ら先陣を切って敵陣に乗り込むほどの戦好きでした。関ヶ原の戦いにおいても先陣を任されていた福島正則を差し置いて攻撃を仕掛けていますが、この戦で負った傷が原因で亡くなったそうです。
この馬屋には、常時藩主の馬十数頭がつながれていました。1688〜1703年頃に建てられたものだそうで、全国の近世城郭内に残る大規模なものであり重要文化財にも指定されています。
大手門から天守に向かうと立派な天秤櫓(てんびんやぐら)が見えてきます。1854年に大規模な修理がされています。
彦根城天守に登る山道は4箇所ありますが、その石段は非常に登りづらいと言われています。もともと城への石段は、万一敵が攻め入った場合、歩調が一息で登れないよう、意図的に不規則に造られているものです。お寺の屋根のように、最初はゆるやかな登りが、登るにつれて斜度が急になり登りにくくなったり、踏み幅や踏み高を微妙に違わせ一定にせず、敵に対しては足元に注意を向けさせながら登らせ、上から攻撃しやすくしているのです。観光客の皆さんには、大変登りづらいと思いますが、十分気をつけてご見学ください。あっ、すいません看板丸写しです・・・
もともとは5階4重の旧天守を移築したもので、大津城(大津市)の天守のものと考えられています。このため5階建てのものを無理に3階としたため、ずんぐりとした天守に見えます。しかしながらさすが、現存天守だけあって見応えある天守です。
と言ってみても、迫力に欠けるこじんまりとした城は、歴史に興味のない観光客には人気がないらしく城内はとても静か・・・
遠くには琵琶湖が見えます。歩いて行ってもそれほど遠くはありませんよ。湖があるだけで他には特に何もないです・・・と受付の人が言ってましたけど。時間があれば現存する彦根城の内堀、外堀も散策してみましょう。意外にも大きな城であることを実感しますよ。

●長浜城歴史博物館
織田信長が浅井長政の小谷城を攻めた際、信長に仕えていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)はこの戦いの活躍によって一帯の領土を与えられ、長浜城を築城します。本能寺の変によって信長が討たれると城主は柴田勝豊が、賤ヶ岳の戦い後は山内一豊が、駿府城からは内藤信成が、そして信成が亡くなると子である信正が入城しますが、秀吉が亡くなった後に廃城します。この為、現在の城は長浜歴史博物館として模擬復元されたものです。
<住所>
滋賀県長浜市公園町10-10

<開館時間>
9:00〜17:00(入館受付16:30まで) 400円。
休館日 12月27日〜1月2日
<アクセス>
新幹線では米原駅からJR北陸本線で長浜駅まで190円。岐阜駅からは在来線で米原経由で約1時間、950円。名古屋からは米原経由で約1時間20分、1450円。駅から5分程度歩いた場所に当時の城下町の面影が残されている一角があります(右地図参照)。

長浜駅から徒歩10分程度。
2〜3階が展示室になっていて、時期によって展示物は変わりますが案外貴重な品々が陳列してあったりします。展望台からの眺めは気持ちよく、この裏手側の景色では琵琶湖が一望できます。
長浜から少し南に行った地点で撮影した琵琶湖。それにしても琵琶湖はでっかいですなぁ。まるで海のようです。
最寄駅の長浜駅前にある羽柴秀吉と石田三成の像です。出逢いの像と呼ばれるこの像は、逸話である三献の茶が元になっています。

豊臣秀吉(木下藤吉郎、羽柴秀吉)
百姓の生まれの秀吉は織田信長に仕え、今川義元を討ち取った桶狭間の戦いなどの数々の功績をあげ頭角をあらわします。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、山崎の戦いでは光秀を征伐し、その後は賤ヶ岳の戦い、九州征伐、小田原の役と続きようやく1590年に信長が果たせなかった天下統一を成し遂げます。
歩いて5分くらいの場所にある城下町の面影が残るエリアです。黒壁スクエアと呼ばれる一帯にはガラス館やオルゴール堂など系列店舗が沢山あり、小樽にある北一硝子のような雰囲気です。特に女性には人気のエリアのようですよ。写真ではお年寄りが多いようですけど・・・
こちらも賑わいのある長浜大手門通りです。長浜に来たら是非寄ってみて下さいね。
商店街の近くには真宗大谷派(浄土真宗)の寺院、大通寺や長浜曳山まつりについて紹介する曳山博物館などの観光スポットもあります。
長浜では町のあちこちに、ひょうたん柄のマンホールを見つけることが出来ます。これは秀吉の馬印(旗印のようなもの)からデザインされたものであり、とってもユニークですね。

●安土城跡(あづちじょうせき)
日本で初めて本格的な天守(いわゆる高層の城のこと)を建てた織田信長。その城が安土城であり、信長公記などによれば絢爛豪華な城であったと記述してあります。しかし、残念ながら安土城は本能寺の変で信長が討たれた後に焼失してしまい、一部は火災を免れますが後に廃城となりました。しかしながら、石段や石垣、天守跡でもある礎石や仁王門(ハ見寺)、三重塔(ハ見寺)などが当時から現存しています。
<住所>
滋賀県蒲生郡安土町下豊浦

<入山料>
500円。9:00〜16:00(季節により変動)
<アクセス>
安土駅から徒歩で約30分。駅前にはレンタサイクルもあります。駅を出て下豊浦交差点を右折し、その先の安土城址前交差点を左折です。
安土駅前にある織田信長の銅像です。学校の教科書ではもっと凛々しかったような気がしますが、なんか大うつけっぽい風貌です・・
織田信長
幼少の頃は吉法師と名乗っていた信長は日頃、奇妙な行動をとることから周りでは尾張の大うつけ(変わり者)と呼ばれ尾張(名古屋)の大名の子でありながら野や山を駆け巡って遊んでいたそうです。大うつけと呼ばれバカにされ続けていた信長ですが、徐々に武将としての頭角をあらわし家督争いから尾張国を統一します。なかでもその後の桶狭間(おけはざま)の戦いは有名であり、駿河(静岡県)の今川義元の2万人ともいわれる大軍相手にわずか2千人程度の兵力で打ち破り、その名を全国に知らしめることとなります。常に天下を取ることを目指し、上洛(じょうらく)をも果たした信長ですが、本能寺の変で家臣の明智光秀によって討たれました。
安土城跡の入口です。1576年に始まった築城は各地から多くの人を動員し3年で完成します。安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったそうです。信長が本能寺の変によって討たれると一時、城は明智光秀のものとなりますが電光石火で羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀も討たれ、のちに天守と本丸は焼失しました。
石段の幅も攻め難いように設計されていて、とっても歩きにくく、段数もあるので結構疲れます。安土城跡の見学には最低1時間はみておきましょう。
天守まで続く石段には石仏が幾つも使われています。築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存されているそうです。
織田信長の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が住んでいたと伝える屋敷跡です。
天守や本丸と同様に門は焼失してしまいましたが、大きな石に囲まれた石垣(黒金門跡)は安土城跡の見所の1つです。当時は門の上に建物群があったと思われ、トンネルのような通路になっていたと思われます。
信長の遺体は焼失によって明智光秀も見つけられなかったそうですが、この信長公本廟では1583年1月に羽柴秀吉が年賀を表すべく登城し、翌2月に信長の太刀、烏帽子、直垂(当時の服装)などの遺品を埋葬したそうです。一周忌には織田一族や家臣を集め盛大に法要を行ったとのことです。

織田信長の墓は全国に幾つかありますが、有名なところでは遺骨があるといわれる京都の阿弥陀寺があります。
こちらは織田信雄四代の供養塔です。順路から外れた少し奥まった場所にありますので見落としがちです。
ここは山頂の安土城天主台跡。安土城跡では全ての説明用の看板に天守のことを天主と表記しています。当時の技術を結集して建築された安土城は7重(7〜8階の城)もの高さで最上階が金色であったといいます。その下の階は八角形をしていて、さらに下の階では赤や青の色を使い、内部には黒の漆塗りに美しい壁画が多く飾られていたそうです。
安土山に築城された安土城。山の標高は199mと低いものの、周囲は琵琶湖や他の湖に囲まれていて(当時、琵琶湖は安土山のすぐ近くまであったそうです)、さながら水に浮かぶ要塞の体をなしていたそうです。
天主台跡を見学し、帰りの順路は往きとは別のルートが用意されています。城郭内には信長が自らの菩提寺(先祖のお墓)として建てたハ見寺(そうけんじ)があります。本堂は残念ながら焼失して残っていませんが、途中には立派な三重塔が残っています。信長によって長寿寺(甲賀市)から移建したもので室町時代につくられたものだそうです。
怖そうな金剛力士像が睨みつけるハ見寺二王門。両脇の木造金剛二力士立像は1467年の作だそうです。城内へ訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録によって残されているそうです。
近くにある近江風土記の丘にて撮影した安土山。
こちらが近江風土記の丘にある安土城天主信長の館。再現された安土城の外壁や壁画があります。他にも安土城考古博物館や明治に建てられた旧柳原学校校舎、江戸時代の石造物である常夜燈や追分の道標などなど安土城跡からも近いので寄ってみてはいかがでしょうか。
近江風土記の丘までは安土城跡から徒歩で20分程度かかります。大きな通りに出れば遠くに建物群が見えますのでそれを見印に歩いてください。バスは9〜16時の間に安土駅から1時間1本(13時の便はなし)運行しています。200円です。

●賤ヶ岳古戦場
織田信長が本能寺の変で討たれると、後継者をめぐり織田信孝を推す柴田勝家と三法師(織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で対立します。結果的に清洲会議で三法師に後継者が決まりますが、徐々に影響力が低下する柴田勝家と明智光秀を討伐し影響力が高まる羽柴秀吉(豊臣秀吉)との間でついに賤ヶ岳の戦いが起こります。この戦いの勝利によって羽柴秀吉もまた信長の果たせなかった天下統一へ向け本格的に動き出すことになります。
<住所>
滋賀県木之本町大音

<アクセス>
JR北陸本線で木ノ本駅を下車。そこからバスで約5分、大音バス停を下車で徒歩約5分。1時間1本あるかないかのバスなので注意です。タクシーでは駅から約4分、1020円です。

そこから賤ケ岳リフト又は登山で山頂まで行きます。賤ケ岳リフトは片道400円、往復760円で約7分かかります。リフト営業時間は9:00〜17:00までで冬場は運休しますので注意です。登山では30分以上かかります。
訪問時は土曜日の15時くらいですが、観光客らしき姿は殆ど見かけません・・・
リフトで行っても少しだけミニ登山が待ち構えています。距離にして300mあります。昔、ここで戦いがあった場所と言うだけであって特に見所らしきものはありません。
この戦いで活躍したのが福島正則、加藤清正、加藤嘉明、糟屋武則、片桐且元、平野長泰、脇坂安治の賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将たちであり、その象徴ともいえる武士像が山頂にあります。
山頂からは美しい余呉湖が見えます。左手には琵琶湖も見えますよ〜。



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