桃太郎ゆかりの地として有名な岡山県には、その伝説が残る吉備津神社をはじめ日本三名園の一つでもある後楽園に現存12天守のうちの1つ備中松山城、白壁の美しい町並みが残る倉敷美観地区など観光名所も豊富です。サワラ料理、鮒飯、鯖寿司、備中手延麺、えびめし、ママカリ(飯借)などの郷土料理に舌鼓を打つのもいいですね。

<お土産>
定番はなんと言っても吉備団子(きびだんご)!廣榮堂の数量限定、むかし吉備団子は特に有名。他に橘香堂のむらすずめ(むらすゞめ)や、大手饅頭伊部屋の大手まんぢゅうなど。岡山のお土産
全国各地にある桃太郎ゆかりの地ですが、岡山県は特に桃太郎ゆかりの地としても有名で、駅前やその周辺には多くの桃太郎関連の銅像も見ることができます。
岡山県の繁華街は表町商店街周辺となり、岡山駅からは少し離れた位置にあります。歓楽街は田町駅周辺となります。
繁華街と呼べる規模ではありませんが、この辺りが県内では一番賑わいのある場所となります。岡山駅から歩くと15分くらいかかります。
岡山駅から繁華街、歓楽街、観光では岡山城や後楽園までは路面電車が約5分間隔で到着するので大変便利です。路線は岡山駅から田町方面と西大寺方面の2路線あり、岡山駅⇒田町は140円。岡山駅⇒城下は100円です。岡山城、後楽園へは城下で降車してください。乗り方は他県の路面電車同様に後乗り、前降りです。尚、整理券がある場合は取るのを忘れずに、降りる際に運賃箱へ整理券と運賃を一緒に入れましょう。

●後楽園(こうらくえん)
岡山後楽園は江戸時代初期に岡山藩2代藩主、池田綱政(いけだつなまさ)によって造営された庭園で、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並び日本三名園に数えられ、江戸時代を代表する回遊式庭園でもあります。

<開園時間>
8:00〜17:00(季節変動あり) 400円。65歳以上は140円。
<住所>
岡山県岡山市北区後楽園1-5

<アクセス>
岡山駅からは徒歩20分程度。バスでは後楽園前を下車。路面電車では城下を下車して徒歩10分程度。路面電車で行かれる場合は、正門ではなく南門からのアクセス(岡山城経由)となります。岡山城も行かれる場合は共通券がお徳です(560円)。
路面電車で城下を下車して後楽園・岡山城方面へと歩いていくと、美しい旭川が見えてきます。写真正面奥にある橋の右手が岡山城、左手が後楽園です。尚、橋を渡った先に南門があります。
こちらは正門近くにある藩主の居間だった延養亭(えんようてい)。現在の延養亭は戦災により復元されたもの。
岡山後楽園にある建造物の殆どは岡山空襲によって失われましたが、南門近くにある写真の廉池軒(れんちけん)は戦災をまぬがれた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えています。
廉池軒の先にはポッコリとした小さな山があります。唯心山(ゆいしんざん)と呼ばれるこの山は池田綱政の子、継政の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。
園内にある一番大きな池が写真の沢の池です。南門近くには一休みできる、さざなみ茶屋や南門・正門奥には福田茶屋があります。土産物も充実していて団子や名物のママカリなども頂くこともできますよ。
築庭当時は各種の花木が混交した景色で、その名が残る花交の池や花交の滝があります。花交の滝は、大きな音を響かせるよう工夫された石組みの滝から勢いよく花交の池へと流れ落ちます。
花交の池近くには梅林があります。水戸の偕楽園には遠く及ばない梅林ですが、後楽園では春には桜が、秋には紅葉も美しく季節を問わず楽しむことができます。園内には他にもボタンやツツジ、ツバキなどの多くの花々を見ることができますよ。

●岡山城
戦国時代の武将、宇喜多直家が石山城(岡山城)を改築し、岡山繁栄の基礎をつくります。その後、関ヶ原の戦いにおいて西軍の主力として活躍したことでも知られる直家の子、宇喜多秀家(うきたひでいえ)によって城郭を拡張整備し1597年に天守閣を落成させます。現在の天守閣は1945年の空襲によって焼失し再建されたものです。黒漆塗りの姿は松本城の別名、烏城(からすじょう)と区別し烏城(うじょう)とも呼ばれています。
<住所>
岡山県岡山市北区丸の内2-3-1

<観覧時間>
9:00〜17:30 年末休館。入場料300円。後楽園との共通券は560円。

<アクセス>
岡山駅からは徒歩20分程度。バスでは県庁前を下車。路面電車では城下、又は県庁前を下車して徒歩10分程度。
本丸は本段、中段、下段の3つの段からなり、写真は表書院(中段)から本段(上段)に渡した長廊下で廊下門と呼ばれ、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されました。
こちらは現存する築城時の石垣展示です。自然の石をほとんど加工せずに用いた写真の野面積みの石垣は宇喜多秀家の頃のものだそうです。江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで大きく広げたため、階段を下りた低い位置に展示されています。
もとは屋根があり、非常用の食料を保存していたのではないかと考えられている穴蔵だそうです。
こちらは池田忠雄が岡山城主であった頃に建てられたとされる月見櫓。岡山城の大半の建物は明治の廃城令により取り壊されたり、空襲によって失われてしまいましたが、この月見櫓と城下電停近くにある西之丸西手櫓は唯一現存する建造物となっています。
本段へ上る石段の入口にある不明門(あかずのもん)は、明治の廃城令により昭和41年に再建されたもので、平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことからそう呼ばれるそうです。
豊臣秀吉のもとで大大名となった宇喜多秀家によって築かれ、その特徴は不等辺五角形の一階平面に建てられた天守です。また、周辺には3層以上の櫓が11棟もあり、旭川水路を変更して城下に導いてつくられた外堀など防御の面においても優れていました。関ヶ原の戦いでは東軍を最も苦しめた宇喜多秀家ですが、敗戦後に裏切り者とされる小早川秀秋が代わって入城します。しかし秀秋は2年後に亡くなり、城主は池田家へと移りました。小早川秀秋の急死は、秀家と同じく西軍の大谷吉継の祟りだとも言われています。
天守内の地階から6階までには、岡山城に関する様々な資料や展示物が紹介されていますが、これらは全て撮影禁止となっていますので注意です。左写真は江戸時代の庶民の暮らしを再現したエリアで、ここらへんは唯一撮影可でした。
最上階からは岡山市街を360度見渡すことができますが、外に出られる回廊とかはありませんので、ちょっと残念。写真の先に見えるのは後楽園です。

●倉敷美観地区
美しい白壁の町並みが川面に映える町、倉敷。江戸時代、幕府の直轄地(天領)となり、舟運に使われた倉敷川を中心に繁栄し、白壁の屋敷が立ち並ぶ美しい町並みが生まれました。岡山を代表する観光地でもある倉敷には年間を通じて多くの人が訪れます。

<住所>
岡山県倉敷市中央
<アクセス>
JR山陽本線の倉敷駅から徒歩で約15分。岡山駅からは倉敷駅まで約15分、320円です。駅から大通りを直進し、美観地区入口の交差点を左折すれば美しい町並みが見えてきます。
川沿いには多くの土産物屋さんが建ち並んでいます。見学だけなら一通り見ても30分〜1時間程度です。色々と散策したり、食事や美術館等に立ち寄るのであれば2〜3時間程度の予定を立てておきましょう。
岡山を代表する観光地、倉敷。古来この附近一帯は「小野が城」または「城の内」と呼ばれ、戦国時代の砦の跡といわれます。1600年の関ヶ原の合戦で東軍が勝利を得てから、この地は徳川幕府の直領(天領)となりました。
昭和32年に撮影された倉敷(現在の阿知3丁目:倉敷駅周辺)。かつて老松町にあった市場に牛を連れて向かう様子だそうです。
倉敷美観地区の見所はその美しい町並みにありますが、倉敷と言えば大原美術館というほど人気がある美術館で、世界的に有名な名画も多く、日本初(1930年開館)の西洋近代美術館としても知られます。
重要文化財にも指定されている大原邸。他にも井上家住宅なども重要文化財として保存されていますが、カメラを向けるどころか観光客の大半は通り過ぎていってます・・・ 隣にある緑の瓦屋根が目立つ有隣荘(ゆうりんそう:大原家別邸)をバックに撮影する人は多くいました。
他にも倉敷美観地区には写真の星野仙一記念館をはじめ、倉敷考古館、倉敷民藝館、桃太郎からくり博物館、日本郷土玩具館、明治時代の原綿倉庫を利用した倉敷アイビースクエア等など一日で全部はまわれないでしょう。
倉敷アイビースクエアは江戸幕府の代官所跡に建てられた倉敷紡績の発祥工場で、現在は改築された奥に見えるレトロな雰囲気のホテルを初め、オルゴールミュゼ、児島虎次郎記念館、倉紡記念館など、このエリアだけでも見所が豊富です。オルゴールミュゼの奥にあるオルゴールショップには世界最高級といわれるスイス・リュージュ社のオルゴールも展示・販売されています。
倉敷の町並みの魅力は、建ち並ぶ屋敷の統一感にあります。白壁と貼瓦が特徴の屋敷は、倉敷窓・倉敷格子といった独自のスタイルを持ち、屋根の勾配を揃えて建てられています。これは当時の住人たちの美意識として、自然発生的に整えられたものだそうです。バウハウスの創立者、ヴァルター・グロピウスは1954年にこの地を訪れ、「著しい統一を持った家並みを見て、今日は稀な一日であった」と感想を残しています。

※バウハウス=1919年にドイツに設立された美術・建築の総合学校で、モダニズム建築に大きな影響を与えた。
倉敷美観地区のメインとなる倉敷川の両岸の通り以外にも、少し外れた小道にはオシャレなお店や食事処が多く建ち並びます。

倉敷美観地区入口には、お土産として有名な、むらすゞめを販売する橘香堂(きっこうどう)や、美観地区の一番奥(倉敷駅からアクセスの場合)には吉備団子の中でも特に有名な廣榮堂があります。特にこだわり製法の、むかし吉備団子はキングオブきびだんご!に相応しい味。他店のクルミ入り吉備団子も個人的にはお薦め。

●備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)
全国に12ヶ所ある現存天守の内の1つ、備中松山城は現存天守の中では唯一の山城でもあり、最も高所に位置します。鎌倉時代(1240年)、有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭秋庭三郎重信が大松山に砦を築いたことに始まり、1683年に水谷勝宗によって3年にかけて大改修され、現在の天守の姿になりました。

<住所>
岡山県高梁市内山下1
<入城料>
300円 年末年始休み。

<アクセス>
岡山駅からはJR山陽本線から倉敷駅、JR伯備線に乗り換え備中高梁駅(びっちゅうたかはしえき)まで約1時間、840円。駅からは徒歩約60分。タクシーでは1500円程度ですが、週末は城へ行かれる方も多く、乗合タクシーがお徳です。尚、自家用車、タクシーでは平日は城のある山(臥牛山)の8合目まで、土日祝日は5合目までしか行けません(道幅が狭いため)。土日祝日は5合目の城見橋公園から8合目のふいご峠まで15分間隔でシャトルバス(300円)が出ています。観光案内所にてレンタサイクルもありますが、急坂のため若者向き。さらに5合目から先は超急坂となり、アスリート向きです・・・ いずれにせよ8合目からは20分程度のミニ登山が待ち構えています。
車を使わずに頑張って臥牛山(がぎゅうざん)を登れば石垣などの遺構を見ることもできます。詳しい資料はありませんが、麓の御根小屋あたりまでが城の縄張りだったそうです。なんか石が綺麗でほんとに当時の石垣なんでしょうか?歩く速度よりも遅いスピードで息を切らしながら自転車で登る私にとってはそれどころではありません・・・ 基本、車でのアクセスをお薦めします。
ようやく自転車で5合目に到着し、シャトルバスを使わず山頂目指すも、あまりの急勾配に断念・・・ 結局シャトルバスで8合目まで行き、そこからは20分程度の登山です。登山は足場のよい右側と、少しだけ登山気分が味わえる左側のルートがあります。時間も景色もたいして変わりませんのでお好きなルートをどうぞ。
坂は急ですが、それほどキツイといった感じの道ではありません。そして見えてきたのが大手門跡の右側に造られた石垣です。巨岩とその上に高く積まれた石垣の迫力には圧巻です。
上の写真の場所から左に曲がってすぐの大手門跡です。お城の玄関口みたいなものですね。
こちらも当時から現存する土塀です。ただし、奥の方の一部は復元されたものです。そう言われてもよくわからないですけど・・・・
こじんまりとした天守も見えてきました。備中松山城の天守が他の城と比べて小さいのは、備中松山城の天守が権威の象徴としての役割しかもたず、城主の居館や政庁としての役割は山麓の御根小屋が担っていたことによるそうです。
こちらは接続廊下(つなぎろうか)と呼ばれる場所です。この天守は二重二階であり、ここは一階ではなく、八の櫓と天守をつなぐ廊下だそうです。
うわ〜、これが当時から現存している天守の内部か〜!と感動してみても小さな天守なので10分くらいで見終わります・・・ 
装束の間と呼ばれる部屋もあります。籠城時の城主一家の居室床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないよう工夫されています。戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもあるそうです。
板石造り、長さ一間、幅三尺、籠城時の城主の食事、暖房用に用いられた囲炉裏。天守閣の中に切りこみの囲炉裏があるのは全国でも珍しく、これは戦国時代、備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された経験から生まれたのだそうです。
現存天守の特徴でもある急勾配の階段です。珍しい特徴に、階段には踊場が付き折れ曲がっています。敵がすぐにあがれないように曲げ、さらには幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、全ての防御に有利に考えられています。勾配が急であるため各段の踏板にすべり止めの工夫もされているのも特徴です。
武者窓(むしゃまど)から見える景色です。武者窓とは正方形の角材の角を外側に向けて並べて、外からは内が見えにくく、内からは広角に敵兵の動きを見ることができるそうです。
なので、この写真はその角材と角材との間にカメラを押し込むようにして撮影したものです。
裏手の方を覗くと小天守が見えます。こちらも当時から現存する二重櫓です。反対側からも見ることができますが、野猿対策用の高圧電線もあるので近付きすぎは要注意です。
こちらは裏手側にある搦手門跡で、備中松山城はここまで見てきた小松山と、この先にあった初期の頃の砦、大松山からなる城でした。現在、大松山に建造物などはありませんが石垣などが残っているとのことです。搦手門跡の先に道があるようには見えませんが、こっから行くらしい・・・
徒歩や自転車で周辺を散策すれば御根小屋跡や写真の武家屋敷などの見所もあります。

●吉備津神社(きびつじんじゃ)
記紀(古事記・日本書紀)などによれば崇神朝、四道将軍(しどうしょうぐん)の随一としてこの地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られた大吉備津彦大神を祀る山陽道屈指の大社で、祭神の吉備津彦命は日本のおとぎ話、桃太郎のモデルとしても有名です。

<住所>
岡山県岡山市吉備津931 境内自由
<アクセス>
岡山駅からはJR吉備線の吉備津(きびつ)駅まで約15分、210円。駅から徒歩約10分です。
駅の出口は1ヵ所しかありません。駅前の道を左手に進み突き当たりを右折、ひたすら直進です。
社伝によれば、当寺の北西8kmにある新山に温羅(おんら)という鬼神がいて凶暴にして庶民を苦しめ、人々は鬼の城(山城の石積が現存)と呼び、温羅のいる城を恐れていたそうです。五十狭芹彦命(大吉備津彦命)は吉備の中山に陣取り、鬼神と戦うことにしましたが、互いに弓矢を射ると、両方の矢は空中に衝突して落ちてしまいました(矢喰宮:旧高松町高塚に現存)。そこで一度に2つの矢を放つことの出来る弓矢で再び射ると、1つは海に落ちますが1つは温羅の左目に突き刺さり退散しました。温羅はその後に無事に捕らえら、今でも周辺には血吸川、楯突遺跡、阿曽の郷、鬼の岩屋など、鬼退治の神話に所縁ある遺跡や神社が数多くあります。
旧記によると、この戦のとき吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩を呼ぶ・・とあります。社伝には桃太郎の鬼退治に登場するイヌ、サル、キジなどは一切出てきませんが、こんな吉備津彦命の温羅退治から桃太郎のおとぎ話は生まれたのでしょう。温羅退治の話自体、現実離れしてますけど・・・
階段の奥に見える門は重要文化財でもある北随神門です。
北随神門の先には再び階段があって写真は絵馬殿になります。この門をくぐると拝殿に到着です。
写真で見ると建物の右側から階段を上ってくる格好となります。右側が拝殿で左側が本殿となり、2つで1つの建物になっています。そんでもって、2つとも国宝に指定されています。
この一童社と呼ばれる建物の前には、怪しい絵馬のトンネルが2つあります。これは祈願トンネルらしいです。このトンネルをぬけると陽光うららか花の園!と書いてあります。なんのこっちゃ・・・
拝殿の右手の方から本宮社まで続く長い回廊があります。このお寺の目玉スポットでもあり半端なく長いです。途中、重要文化財の北随神門を通り抜けます。
横から見るとこんな感じです。これがず〜っと右のほうに続いていきます。他にも明治期に社殿奥へと追いやられたえびす宮や、運動不足の人に最適な階段のある岩山宮、松の枝っぷりの見事な宇賀神社などの見所も少々あります。

●備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)
国分寺は国分寺尼寺とともに鎮護国家を祈るため、741年に聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。中世には廃寺となりますが、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍は全て再興後に建てられたものとなっています。

<住所>
岡山県総社市上林1046 境内自由
<アクセス>
岡山駅からはJR山陽本線で倉敷駅でJR伯備線に乗り換え総社(そうじゃ)駅まで約30分、480円です(JR吉備線だと約40分、410円)。駅からは2時間に1本のバス・・・で吉備路もてなしの館を下車。観光案内所の少し先にレンタサイクル(時間制)があります。サイクリングロードも整備され景色もよいです。道は全て平坦なため、晴れていれば快適ですが距離は駅から約6kmもありますので注意です。
国分寺とは741年に聖武天皇が建立を命じた官寺で、日本には60余りの国分寺が建てられたそうです。その総国分寺が有名な奈良の東大寺です。
山門には怪しい飾り物が!これはハートマークを逆さにした隠れキリシタンの仕業なのでしょうか。それとも桃太郎の桃?さすがに、それはないですね・・・ 尚、このハートマークのようなデザインは大抵の寺社で見ることができます。。。
吉備路の代表的な景観といわれる備中国分寺の五重塔は遠くからでもハッキリ見えるほどインパクトがあります。周辺が田んぼだから目立つと言ったらそれまでですが・・・

20数年かけて建立されたと伝わる五重塔は、奈良時代の塔とは別のところにあったそうです。総高約34m、三層までは総ケヤキ造りで、四・五層は松材が主体となっているそうです。
当時の寺域は広大で東西約160m、南北約180mもあったそうです。五重塔を含め、奈良時代の全ての伽藍は廃寺によって失われ、現在の建築物は全て江戸時代以後に建立されたものです。境内には創建時(奈良時代)の建物礎石なども見ることができます。
備中国分寺から歩いて10分くらいの場所にある備中国分尼寺(こくびにじ)跡です。跡なので建物は一切ありません・・・ 日本では国分寺では女性は修行できないため、女人修養のための尼寺が建てられました。当時、国分寺、国分尼寺をセットで各国に建立するも、女性(尼)は僧侶としては認めてもらえませんでした。このため、やがて尼寺も衰退し再建されることはなかったのでしょう。写真は寺の中心であった金堂跡ですが、すぐ近くには他の建物跡もあります。跡ですけど・・・
国分寺と国分尼寺との間にある全長100mたらずの前方後円墳、こうもり塚古墳です。誰だか分かりませんが、多くの労働者を集めることができた支配者層の墳墓らしいです・・・ 周辺には他にも江崎古墳、作山古墳、造山古墳・・・と、多くの古墳が点在します。なかでも造山古墳はウィキペディアによると、誰でも立ち入ることができる古墳としては日本最大!とのこと。時間がある方はどうぞ。