鎖国時代、唯一外国と貿易のあった長崎は異国情緒あふれる土地です。それだけに定番のグラバー園に大浦天主堂、坂本龍馬ゆかりの亀山社中跡など観光スポットも豊富です。少し足をのばせば、オランダの街並みを再現した人気のハウステンボスや南蛮貿易で栄えた平戸、大小140の島々からなる五島列島など見所に困りません。グルメでは、郷土料理のしっぽく料理にちゃんぽんや皿うどん、他にも、トルコライスや角煮まんじゅうなどのB級グルメも外せません。
長崎県へのアクセスには長崎空港が便利です。車では長崎県と唯一隣接する佐賀県側からのアクセスも可能です。長崎空港から長崎駅(長崎駅前ターミナル)まではバスで約40分、800円です。尚、バスは繁華街にも近い長崎県庁や中央橋などにも停車します。

<お土産>
カステラやちゃんぽん、角煮まんじゅう、びわゼリー、九十九島せんぺいなど。カステラは松翁軒、福砂屋が文明堂を凌ぐ人気で、地元では知らない人はいません。長崎県のお土産
長崎県の観光地の大半は市街地にあります。移動には路面電車(長崎電気軌道)が便利です。運賃は120円で5〜8分間隔で運行しています。乗り方は他県と同じく、後乗り(又は中乗り)前降りです。運賃は降車時に運賃箱へ。乗り継ぐ場合は支払い後に「のりつぎ券」を発行してもらい次の降車時に券を運賃箱へと入れます。尚、乗り換えの面倒さや割安感を考えると一日乗車券500円がお得です。一日乗車券は車内販売はしていませんので注意です。事前にホテルや観光案内所(長崎駅改札隣)、長崎県物産館(県営バスターミナル2F)などで購入しておきましょう。

長崎の路面電車の路線図はこちらからDLして下さい。

カステラで有名な文明堂総本店が大波止電停の目の前にレトロな姿で建っています。ちなみに、お土産購入の場合、長崎空港にも文明堂ほか、松翁軒、福砂屋の店舗がございます。
長崎県最大の繁華街は、長崎駅から少し離れた浜町周辺となります。路面電車の電停でいうと、西浜町、西浜町アーケード前、観光通あたりとなります。
街の中心となる浜の町(浜ん町、浜町)アーケード街です。活気のない他県の中心アーケード街と違って、鹿児島や熊本県のように、賑わいのある商店街です。地元の方は略して「まち」と言うのだそうです。一方、歓楽街は電停でいえば観光通〜思案橋あたりに集中しています。
長崎の路面電車は、その殆どがレトロ感あふれる古い車両を使用しています。

長崎の路面電車って整理券が無いこともあり、アナウンスがあれば前扉からの乗車も可能なんですが、隙あらば勝手に前から乗車している人も多し(笑) 

●グラバー園
幕末期に薩摩藩、長州藩のパイプ役となった坂本龍馬らを中心とした亀山社中に武器を売るなどし、討幕派を支援した貿易商のグラバーや、リンガー、オルトなど同じく開国時に活躍した外国商人達の邸宅が建ち並ぶグラバー園。他にも移築された歴史ある洋風建築物もあり、今では長崎一の観光名所となっています。

<住所>
長崎県長崎市南山手町8-1
<開園時間>
8:00〜18:00 入園料610円。

<アクセス>
JR長崎駅からは路面電車で長崎駅前電停から正覚寺下行きで築町を下車、向かいの(反対方向の)石橋行きに乗り換え、大浦天主堂下か石橋で下車し徒歩約15分です。

グラバー園は山の斜面に建造物が建ち並んでいます。大浦天主堂下側からは山下から徒歩でアクセス(園内にエスカレーターあり)、石橋側からは斜めに動くエレベータ、グラバースカイロード+垂直エレベータで山上からのアクセス(無料)となります。

山上からは美しい長崎の街並みを見ることができます。周辺にはオランダ坂、大浦天主堂、孔子廟、東山手洋風住宅群などの観光名所がどれも徒歩圏内にあります。
グラバースカイロード側からのアクセスで最初に見学する施設が、明治29年に建てられた旧三菱第2ドックハウスです。ドッグハウスとは船員の宿泊施設のことで、太平洋戦争の直前、長崎造船所では戦艦武蔵の建造が行われていました。高台にある造船所を見渡せるこの土地は戦艦建造を秘匿するという目的があったため、三菱重工業に買収されたという経緯があります。トップの写真はこのドックハウス2階より撮影したものです。
こちらは明治初期の居留地建築の代表でもある旧リンガー住宅。木骨石造りの珍しいこのリンガー邸は重要文化財にも指定されています。
イギリス人のフレデリック・リンガーは、グラバー商会を退職し、ホーム・リンガー商会を設立。その後、製茶業、製粉、石油備蓄、発電などの事業に幅広く活動し、我が国初のトロール漁業や、上水道敷設など長崎の殖産興業に力を注ぎました。
こちらは、長崎居留地で最も立派な個人住宅でもあった旧オルト住宅。ウィリアム・ジョン・オルトが3年間住んでいた邸宅です。石造円柱が列ぶベランダの中央に妻切屋根のポーチがあり、軒高の堂々たる偉容を誇る幕末明治洋風建築の中でも出色の建築です。旧リンガー住宅と同じく、木骨石造りのこの建築物もまた重要文化財となっています。
貿易商として製茶業を主に実業家として活躍したイギリス人、ウィリアム・ジョン・オルト。その後、活水女学校の校舎や米国領事館として使われました。明治36年からはリンガー家の所有となり、フレデリック・リンガーの長男と妻、娘が住んでいたそうです。
グラバー園には他にも、グラバーとともにキリンビールの前身を設立したロバート・ネール・ウォーカーの邸宅、明治に建てられた長崎地方裁判所官舎、もとは東山手の丘に建てられた旧スチイル記念学校など、移築された建造物も含め見所満載です。

写真はトーマス・ブレーク・グラバーの息子、トミー・グラバー(倉場富三郎)がつくったとされる日本最初のアスファルト道路だそうです。
建築物だけではなく、グラバー氏と親交のあった薩摩藩主から贈られたという樹齢300年の蘇鉄(ソテツ)や、キリンビールのモデルになった麒麟の展示など、これらも見所満載です。写真はグラバー住宅前の展望所にあるハート型の敷石。なんでも、これを見つけると幸せが舞い込むかも?とのこと。神社の縁結びや水琴窟のような客寄せ効果があるのでしょうか・・・ ハートは園内にあと1つ、レストハウス前あるそうで、このハート探しが若者カップルには大人気でした。
数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ、現存する日本最古の木造洋風建築で、重要文化財にもなっている旧グラバー住宅。
坂本龍馬や西郷隆盛など幕末を題材にした小説やドラマでは、武器商人としてのイメージが強いグラバーですが、造船や、採炭、製茶貿易業など、日本の近代化に大きく貢献しています。スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーは1859年、彼が21歳の時、開港と同時に長崎に渡来し、グラバー商会を設立しました。幕末の激動の時代の中、志士達を陰で支え、薩摩藩士らの英国留学を手伝うなど、若い人々への多大な援助を惜しみませんでした。また明治以降は経済人として、日本の近代科学技術の導入に貢献しています。
とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営した炭鉱の坑夫からは赤鬼とあだ名されましたが、その性格は豪胆で情に厚く、使用人の子供にさえお土産を忘れないきめ細やかな愛情の持ち主だったようです。同様に家族に対しても、日本人女性・ツルとの間に子供を授かり、温かな家庭をつくり、仲むつまじく日本で終生を過ごしました。1911年、73歳の生涯を閉じたグラバーは現在でも長崎市の坂本国際墓地でツルと、息子の倉場富三郎夫婦とならび眠っています。写真は左より長男の富三郎、妹マーサ、弟アルフレッド、長女ハナ、グラバー、富三郎の妻ワカ。
食堂のテーブルには日本が開国されたころの西洋料理が再現されています。どれもリアルで美味しそうでした・・・
正面に立っても自分の姿が見えない不思議な鏡。これは部屋を明るくするために設置されたらしい・・・とのこと。これって本当なのでしょうか?お金持ちなんだから天窓つくったほうがいいような気が・・・
こちらは昭和49年に移築復元された旧自由亭。もとは明治11年に西洋料理店「自由亭」として諏訪神社近くに建築され、日本で初めての西洋料理のレストランなのだそうです。当時の自由亭のメニューには、ビフテキやカレーライスなどがあったそうですよ。現在は食事には不向きですが、2階にて美味しいダッチコーヒー(水で抽出したコーヒー)がいただけます。

●大浦天主堂
日本最古の現存するキリスト教建築物としてだけではなく、日本最古の洋風建築として国宝にも指定されている大浦天主堂。キリシタン禁教令によって処刑された26人の聖殉教者に捧げられた教会として、1597年に正式名称の日本26聖人殉教者天主堂と命名されました。又、禁教令下において、日本では初めてキリスト教信仰者が発見された地でもあります。

<住所>
長崎県長崎市南山手町5-3
<拝観時間>
8:00〜18:00 300円。

<アクセス>
路面電車の大浦天主堂下を下車し徒歩約5分。又は石橋で下車し、グラバー園を見学後、出口より徒歩すぐです。

ジラール・フィーレ両神父(パリ外国宣教会)の設計のもとに1864年に竣工された大浦天主堂は、殉教地である西坂に向けられています。耳を澄ませれば、禁教令下に隠れキリシタンと呼ばれた信徒らの思いを、少しながら感じることが出来ます。尚、残念ながら教会内は撮影禁止です。

●オランダ坂
異国情緒あふれる石畳のオランダ坂。かつて長崎の人達は、東洋人以外をオランダさんと呼び、外国人居留地がある坂道も、すべてオランダ坂と呼んでいたそうです。常に日本三大がっかり名所の三番手として候補に挙がりますが、風情ある坂の途中には、観光名所の東山手洋風住宅群や、すぐ近くに孔子廟、グラバー園や大浦天主堂も楽々徒歩圏内なので、散策コースに入れておきましょう。

<住所>
長崎県長崎市東山手町
<アクセス>
石橋電停から歩いて3分程度です。又は、地図のように大浦海岸通を下車しても、オランダ坂まで徒歩5分程度です。その後はグラバー園(グラバースカイロード経由)→大浦天主堂と、全て徒歩圏内です。

オランダ坂の途中には同じく観光名所の東山手洋風住宅群の他、東山手十二番館、東山手甲十三番館なんかもあります。又、地図には載っていませんが、オランダ坂の石橋電停付近には孔子廟・中国歴代博物館もあります。

●東山手洋風住宅群
居留地時代の風情が残るオランダ坂の途中にある東山手洋風住宅群。重要伝統的建造物群保存地区にある7つの洋館は、明治20年代後半頃に賃貸住宅としてまとめて建設されました。このような用途の住宅遺構が群として残存することは全国的に類がなく、また、東山手の景観上特異な存在であり貴重なものです。

<住所>
長崎県長崎市東山手町
外観の見学は自由ですが、建物内は9:00〜17:00、月曜日、休日の翌日と年末年始は休館のため見学不可。又、古写真資料館・埋蔵資料館は200円と有料となっています。入館料は、他に南山手町の版画展示館(南山手乙9番館)との3館共通券になっています。こちらも外観見学は自由です。

グラバー邸のある南山手はイギリス人を中心とした高級住宅が建ち並び、東山手はアメリカ人が多く住んでいたそうです。東山手は領事館や教会があったことから領事館の丘とも呼ばれていたそうです。

●孔子廟・中国歴代博物館
孔子廟は1893年に清国政府と在日華僑が、学問道徳の神として孔子を祀った霊廟です。中国人が孔子廟の建設に携わったのは国内でもこの長崎孔子廟のみで、圧倒される等身大の孔子の弟子、72賢人像は見応えあります。又、裏手には、北京故宮博物院と提携している世界で唯一の常設博物館、中国歴代博物館があります。

<住所>
長崎県長崎市大浦町10-36
<入館時間>
8:30〜17:30 600円。年中無休。
入館料は孔子廟・博物館との共通料金です。

<アクセス>
電停の大浦天主堂下か石橋を下車し徒歩3分程度です。グラバー園、大浦天主堂、オランダ坂もすぐ近くです。
513年に百済より五経博士が渡日して伝わったとされる儒教。儒教の開祖でもある孔子は、世界三大聖人(釈迦・孔子・イエス)の一人でもあります。江戸時代には学問の中心として位置付けられてた儒教(朱子学)は、その後の尊皇攘夷思想へとも結びつき、明治維新への原動力にもなりました。儒教の思想は、五常の徳(仁、義、礼、智、信)という教えです。馴染があるところでは、礼や仁と義を合わせた仁義という言葉などでしょうか。このように現代の日本においても、少なからず影響力をもたらしているといえましょう。
孔子廟の大成殿の裏手にある中国歴代博物館では、中国国外ではここでしかみることができない故宮の宮廷文物や美術品を展示しています。博物館の案内には『ご存知のように北京故宮博物院は中国を代表する博物館であり、提供される展示品は国指定一級文物(国宝)クラスのものばかりです』とある通り、展示品はどれも息を呑むほど素晴らしいものばかりです。

●出島(でじま)
出島は1636年に、市内で雑居していたポルトガル人を居住させるために築かれた人工の島です。その後、1639年の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、出島は一時無人の島になりましたが、1641年、平戸にあったオランダ商館が出島に移され、以降、開国までの218年間、西欧に開かれた唯一の窓口になり、出島は大きな役割を担いました。尚、明治以降に出島周辺は埋め立てられてしまったため、現在の出島の姿は復元されたものとなっています。
<住所>
長崎県長崎市出島町6-1

<開場時間>
8:00〜18:00 年中無休 510円。

<アクセス>
出島電停で下車すぐです。右の地図で見ると敷地はそこそこ広く、入口は電停側からとなっています。
17世紀前半、ヨーロッパで最も求められたのは香辛料でしたが、ヨーロッパからもたらされる毛織物などは、香辛料の産地である高温多湿な東インド地域では不人気でした。そこで、交換用の物資として、中国やトンキン、ベンガル産の生糸をもって日本から銀や銅を仕入れ、これをインドへ運び綿織物と交換し、さらに綿織物を見返り商品にして香辛料を入手していました。
オランダ貿易における日本からの輸出品のうち、江戸初期の主要品は銀でした。日本産の銀は良質で、オランダ側もわが国との貿易はこの銀を目当てにしていました。しかし、海外への大量の銀流出を問題とした幕府はこれを制限し、17世紀後半から代替品として銅の輸出をすすめ、以後、幕末まで銅が輸出品の主力となりました。このほか、日本からは樟脳、陶磁器、漆製品、醤油や味噌といった樽物なども輸出されました。
東南アジアからの香辛料や服飾材料、ヨーロッパからの陶器などが、江戸時代の日本人の生活の中に溶け込んでいきました。その他の輸入品として、伽羅、沈香、麝香、白檀などの香料や丁子、桂皮、胡椒などの乾薬、鹿皮、鮫皮などの皮革、服飾品に加工する材料として鼈甲や象牙、珊瑚など、錫、鉛などの鉱物類などがありました。19世紀になると、オランダ・イギリスなどの銅板転写陶器なども多く輸入され、国内に流通しました。
コーヒーは、江戸時代初期にオランダ船によって伝えられ、出島はコーヒー発祥に地でもあります。出島から日本に伝えられたコーヒーは、薬の一つとして紹介されました。コーヒー以外にも海外から日本にもたらされたものは多彩です。主要なものでは砂糖があります。砂糖は主にインドネシアのジャワ島の砂糖農園で作られ、オランダ船で日本に運ばれるときには、船の底荷の役割も果たしました。他、ビールやジンなどの酒類、チョコレート、ドロップなどの嗜好品、加工食品であるバターやチーズ、ハム、ソーセージ、カメラやレンズ、時計といった機器類にピアノ、さらにはビリヤードやバドミントンなどの遊戯まで、今日の私たちの身近に見られるものが多数あります。
施設内にはカピタン部屋以外にも砂糖や蘇木などを収めていた蔵や、オランダ船の船長や商館員の居宅、出島シアターなど、見所?というか、とても勉強になります。
商館長のことを日本ではカピタンと呼んでいました。このカピタン部屋は非常に大きな建築物で、商館長の住まいであると同時に、商館事務所やお客をもてなす場としての機能を持つ、出島を代表する建物でした。
出島の商館員たちは、昼夕2回、カピタン部屋に集まって、皆で食事をとる習慣になっていました。この部屋はカピタン部屋のなかで35畳と最も広く、格式を備えており、日本側の役人などとの応接や饗応の場として特に重要な役割を担っていました。
ミニ出島は、川原慶賀が描いたといわれる「長崎出島之図」をもとに、1820年頃の出島を現した縮尺約1/15の模型です。
発掘調査で見つかった輸入品であった蘇木(染料)の収蔵庫。湿気防止として粉のように細かく砕いた珊瑚の層が発見されています。
こちらは明治36年に建てられた旧長崎内外クラブ。1階は喫茶・軽食コーナー、2階は居留地時代の展示を行っています。
こちらは明治11年に建てられたキリスト教(プロテスタント)の学校、旧出島神学校。1階は料金所や出島売店として利用、2階は当時のゲームなどができる体験展示室があります。

●長崎新地中華街(ながさきしんちちゅうかがい)
横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街とされる長崎新地中華街。横浜や神戸の中華街と比べると広さはありませんが、北京ダックにトンポーロ、ごま団子にマファールと高級料理から中国菓子まで何でも揃っています。

<住所>
長崎県長崎市新地町
<アクセス>
築町電停を下車し、徒歩約2分。

神戸南京町は横浜中華街と比べかなり狭いエリアですが、長崎新地中華街はさらに狭いエリアとなっていて、見学というよりは、中華料理屋が建ち並ぶ食事処と思ってください。尚、中華街でありながら、どの店も昼の主力メニューは長崎ちゃんぽんと皿うどんとなっています・・・

●平和公園
第二次世界大戦末期、1945年、8月6日に広島に投下された原爆に続き、8月9日には長崎に原爆が投下されました。この原爆の歴史を語り、平和の尊さを内外に発信するために建設された平和公園には世界恒久平和のシンボルとして建立された平和祈念像や、冥福を祈りつくられた平和の泉などがあります。

<住所>
長崎県長崎市松山町
<アクセス>
路面電車の松山町を下車し、徒歩5分程度。帰りは原爆公園(原爆落下中心地公園)を抜けて長崎原爆資料館まで徒歩で向かうのをお薦めします。

トップの写真は公園入口にある平和の泉です。「水を水を」とうめき叫びながら死んでいった、その痛ましい霊に水を捧げて、冥福を祈りつくられたそうです。中央の石碑には以下の文が刻まれています。

あの日のある少女の手記
『のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました。』
爆心地にもっとも近かった公共の建物であった長崎刑務所浦上刑務支所の跡地です。職員、官舎居住者、受刑者及び刑事被告人計134名が死亡し、周囲の高さ4m、幅0.25mの鉄筋コンクリート塀は、ほとんど根本から倒壊したそうです。
この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和のシンボルとして昭和30年8月の原爆10周年記念日に建立されたものです。上方をさす右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和をすすめる姿を、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている姿となっています。
平和公園から長崎原爆資料館まで徒歩で向かうと、途中には原爆落下中心地公園があります。その名の通り、原爆が炸裂した中心地となり、今も被爆当時の地層が残されています。

昭和20年8月9日午前11時2分、米軍機のB29から投下されたプルトニウム原子爆弾がこの地の上空約500mで炸裂、約15万人の死傷者を出しました。原爆落下中心地にあたるこの地層には、原爆によって壊された家の瓦やレンガ、熱によって焼けた土や溶けたガラスなどが現在でも大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す被爆資料として、現地に保存・展示されています。
松山町上空で炸裂した原子爆弾。町の東部を流れる川は、おびただしい死体で埋まっていたそうです。

「長崎の証言」1970より抜粋
『下の川の、なかばくずれた松山橋を渡る時−ああ、その下には川の水も流れることができないほど人間の死体が埋まっているではないか。それはあたかも聖書に出ている世の終わりを想わせる、この世の生き地獄図そのままだ。空は白雲一つない晴れ渡った青空というのに、地上はなんという悲惨な光景だ。』

下を流れる小川の護岸には、被爆当時の石が用いられているそうです。

●長崎原爆資料館
原爆投下前の長崎の街の風景や投下後の被爆の惨状をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、および核兵器開発の歴史を紹介した資料館となっています。

<住所>
長崎県長崎市平野町7-8

<開館時間>
8:30〜17:30(季節変動あり)、200円。
<アクセス>
路面電車の浜口町電停を下車し、徒歩約5分。ここから平和公園も少し離れますが徒歩圏内です。
奥に見えるのは被爆した浦上天主堂の側壁(再現造型)。

1945年、8月9日に長崎に投下された原爆は、爆発点での最高温度は摂氏数百万度に達し、爆発後1万分の1秒後には約30万度の火球を形成、地表面の温度は爆心地で3000度から4000度、1km離れたところでおよそ1800度、1.5km付近で600度以上に達したものと推定されます。爆心地から4km離れたところでも、屋外にいた人は熱傷を負うほどだったそうです。爆風は爆心地から1kmの地点でも毎秒170mもあり、台風の風速が最大級でも毎秒80mほどであるのに比べれば、いかに強烈な破壊力をもっていたかがわかります。
爆風は爆心地近くのあらゆる建物を破壊し、約10秒後には爆心地から約3.7km、30秒後には約11kmに達し、このようなすさまじい爆風に人々は吹き飛ばされ、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びたそうです。人体におよぼす害は、爆発のときだけでは終わらず、放射線は人体の細胞を破壊し、身体の奥深くを傷つけ時がたつにつれて様々な症状を呼び起こします。

写真右手にあるのがファットマンの模型。広島に投下されたリトルボーイが高濃縮ウランを用いた原子爆弾であるのに対し、長崎に投下されたファットマンはプルトニウムが用いられています。
被爆者の証言 『お母さんを焼いた運動場』
ぼくはいま 山里小学校4年生だ。運動場はすっかり片づいている。友だちはここでたくさんの子供が死んで焼かれたことを知らない。

ぼくはふっとあの日のことを思い出す・・・ お母さんを焼いたその所にしゃがんで、そこの土を指でいじる。竹で深くいじると、黒い炭のかけらが出る。

土の中にボーッと
お母さんの顔がみえてくる。

●亀山社中記念館
幕末に土佐藩を脱藩した坂本龍馬を中心とした海援隊。海援隊の前身となる亀山社中は、坂本龍馬とその同志により設立された日本初の商社であり、日本の株式会社の基盤を築いたことでも知られています。銃器や軍艦の買い付けなど、後の薩長同盟の締結に貢献し、のちの大政奉還、倒幕および明治維新にも影響を及ぼすこととなりました。

<住所>
長崎県長崎市伊良林2-7-24
<開館時間>
9:00〜17:00 年中無休、300円。

<アクセス>
路面電車の新大工町電停を下車しし、徒歩約15分。電停からは小さな案内看板が要所要所に置かれています。途中、赤い鳥居(稲荷神社)が連立する坂を上っていきます。道幅の細い急坂の連続なので、足腰に自信がない方は要注意です。
急坂を上って、300円払ったわりには、見所と呼べるものは何もありません。この写真の中の狭い部屋をジロジロ眺める程度です・・・

龍馬が姉の乙女に宛てた手紙は必見ですが、複製です。。
すぐ近くには龍馬のぶーつ像や、無料で入れる亀山社中資料展示場があります。こちらでは亀山社中に関連した歴史上の人物が写真で紹介されています。
さらに山上を目指すと風頭公園というところに、桂浜にある銅像にも負けないほど立派な坂本龍馬像があります。このあたりもセットで見学されるのが良いでしょう。
ここからの眺めは素晴らしく、昼間であれば市内にある日本三大夜景としても有名な稲佐山にも負けない景色です。

●眼鏡橋(めがねばし)
日本最古の石造アーチ橋で、1634年興福寺の唐僧、黙子禅師によって架設された眼鏡橋。川面の映るその姿から、古来より“めがね橋”の名で長崎の人たちに親しまれていましたが、明治15年に正式に眼鏡橋と命名されたそうです。

<住所>
長崎県長崎市魚の町
<アクセス>
路面電車の賑橋電停を下車し、徒歩5分程度です。
夕暮時の眼鏡橋は美しいの一言です。重要文化財にも指定され、一応は長崎の観光名所でもあります。。

●稲佐山(いなさやま)
函館や神戸と並び日本三大夜景としても有名な長崎県の稲佐山。標高は333mしかありませんが、山頂から望む夜景は、さすが1000万ドルの夜景と言われるだけあり、息を呑むほどの美しさです。

<住所>
長崎県長崎市稲佐町

<営業時間>
9:00〜22:00 無料 年中無休。
<アクセス>
長崎駅前バス停より長崎バス3、4番系統ではロープウェイ前、5番系統の場合は稲佐山バス停を下車。そこからロープウェイで山頂展望台まで。展望台からの見学は無料ですが、徒歩、車を除き、ロープウェイの淵神社駅〜稲佐岳駅の往復料金1230円が必要となります。車は直接、山頂まで向かうことが出来ます。尚、路面電車の宝町からは徒歩で30分程度かかり、しかも夜道が暗いので女性の方は特に注意です。

●崇福寺(そうふくじ)
福州から渡来した長崎に住む中国人らの願いから1629年、中国の僧であった超然によって創建された黄檗宗の寺院、崇福寺。入母屋造の大雄宝殿や第一峰門は国宝にも指定されており、見所の一つです。

<住所>
長崎県長崎市鍛冶屋町7-5
<拝観料金>
300円。 8:00〜17:00 無休。

<アクセス>
路面電車の正覚寺下行きで終点を下車、徒歩約5分。
こちらは国の重要文化財にも指定されている二階建ての三門(楼門)です。三門は空門・無相門・無作門の三解脱門の略だそうで、この建物は1849年に再建されたもので、楼上正面には山号である聖寿山の額が掲げられています。
三門を抜け拝観料を支払い、左手の石段を上ると見えてくるのが第一峰門です。
この門は二の門・中門・唐門・赤門・海天門等の別名があるそうで、当初はここが三門であったそうです。江戸時代(1696年頃)に建てられたものだそうで、なんと国宝に指定されています。
この第一峰門は四手先三葉という複雑な組み方が特徴となっていています。また、雨が当る部分は単なる朱塗りであるのに対し、軒下には鮮やかな彩色が施されてるのも特徴であります。
写真とトップにあるのが同じく国宝の大雄宝殿(だいゆうほうでん)で、釈迦如来座像を本尊として安置しています。1646年に建立したもので、長崎に残る建造物としては最古でもあります。軒回りの擬宝珠付き垂花柱が特徴で、どこか可愛らしくもあります。
こちらは、またまた重文の護法堂で、1731年に建てられたもの。天井や半扉など、各部が中国様式であるのに対し、屋根の妻飾は日本風であることから、軸部を中国で切組んだものを唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと思われるそうです。
1827年に再建された媽姐門(まそもん)です。奥に媽姐堂があり、左手にある大雄宝殿と方丈とをつなぐ廊下も兼ねた巧みな配置となっています。
海上安全の守護神媽姐を祀る媽姐堂は1794の再建で、航海安全を最上の願いとする来航唐商たちが祀っていたそうです。

●シーボルト記念館
江戸時代、出島のオランダ商館医として来日したドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。シーボルト記念館は西洋医学(蘭学)の教育に力をいれ、日本に大きく貢献したシーボルトを顕彰するために建てられ、館内ではシーボルトの生涯などが紹介されています。

<住所>
長崎県長崎市鳴滝2-7-40
<開館時間>
9:00〜17:00 100円。年末年始休み。

<アクセス>
路面電車の新中川町電停を下車し、徒歩約10分。案内板も要所要所にあるので道に迷うことはないでしょう。
1823年に出島和蘭商館医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や、門弟に対する教育活動、日本研究活動などを行いました。全国各地から集まった門弟達は、西洋の進んだ学問や科学的な思想を学び、なかには幕末に活躍した蘭方医や、日本の近代化に大きく貢献した人物も少なくありません。

写真はシーボルト宅跡です。跡だけあって何もありません・・・ 
奥には倉庫跡もあったりします。禁じられていた日本地図などの持ち出しによって、日本より追放されてしまったシーボルトですが(シーボルト事件)、開国後に再来日し、その後はこの場所を研究活動の拠点としていたそうです。
確かこの日は土曜日だったような気がしますが、館内には誰もいませんでした・・・ 展示物も少なめです。