●恐山(おそれざん)
日本三大霊山の一つに数えられる恐山(恐山・比叡山・高野山)。862年、円仁(慈覚大師)が東へ向かうこと三十余日、霊山あり。その地に仏道をひろめよとの夢のお告げに従い、辿り着いたのが恐山であると言われています。恐山大祭や恐山秋詣りではイタコの口寄せが行われます。

<住所>
青森県むつ市田名部宇曽利山3-2
<入山時間>
6:00〜18:00(大祭典・秋詣り期間は別設、11〜4月は閉山)入山料500円。

<アクセス>
八戸駅、又は青森駅から下北駅までは、青い森鉄道で約90〜120分。さらに下北駅からバスで約50分、800円です。バスの運行本数は日に数本なので注意です。尚、バスは夏の恐山大祭と秋の恐山秋詣りでは増便されます。
恐山に入る手前、カルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)という湖があります。この湖の水は正津川(通称、三途川)から海(津軽海峡)へと流れていきます。写真は三途川に架かる太鼓橋。ここが現世と死後の世界との分かれ道となります。
人は死後、三途の川(橋、浅瀬、深瀬の渡り場のある川)を渡るという。その川の通行料(六文銭)を持ってこなかった死者の衣服を剥ぎ取り、奪衣婆(だつえば:だついば)がその衣服の重さで罪の重さを計るという。尚、善人は橋を渡るので衣類は当然軽くなります。

川(湖)の水は火山の影響で酸性度が強く、このため魚がほとんど住めない環境下となっています。その代りと言ったらなんですが、とても美しい水です。
六道において救済の手を差し伸べる六地蔵。仏教の死生観にある輪廻転生では、人は生まれ変わると六つの道、天道、地獄道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道のいずれかに進むという思想があります。
こちらは総門で、ここから先は入山料が必要になります。入山する前から周辺は硫黄臭がものすごいです。尚、恐山と言っても、そんな名前の山があるわけではなく、宇曽利湖を中心とした周辺の山々などを総称した呼び名なんだそうです。
恐山菩提寺は862年に天台宗の円仁(慈覚大師)によって開山されたと伝わります。1456年、蛎崎の乱の際に焼き払われ、いったん廃寺となった後、1530年に円通寺開山の聚覚和尚が南部氏の援助を受け再興し曹洞宗に改められました。
平成元年に建立された立派な山門です。この奥に本堂らしき建物が見えますが、奥にあるのは地蔵殿(開山堂)で、この山門の手前の左手にあるのが現在の本堂となっています。
こちらが本堂となります。本堂なのに山門の手前にあるのが謎です。
中国の故事、司馬温公の甕割りの彫刻。この彫刻は司馬温公(しばおんこう)の甕(かめ)割りと呼ばれ、中国北栄の政治家、司馬温公の少年時代のお話です。ある日、一緒に遊んでいた友達が水甕の中に落ちて溺れてしまいました。もう一人の友達はハシゴをかけて助け出そうとします。一方、聡明な司馬少年は「それでは間に合わない!」と近くの石で甕を割って助け出しました。命の尊さを説いているとか、いないとか。
本堂前には石が積み上げられた小さな塚があり、その石と石の隙間には多くの風車が刺さっています。これは幼き子を亡くした親が供養として供えたもので、カラカラと音を立てて回る風車は、どこか寂しげです。
とにかく広い境内の恐山菩提寺。見学時間は最低でも1時間、通常でも2〜3時間程度は見ていたほうが良いです。奥に見えるのが本尊である地蔵菩薩を安置する地蔵堂。
無料で入浴できる霊泉がありました。神経痛や胃腸病、切り傷や眼病に効能があるらしいです。硫黄臭の強烈な温泉って大好きなんですが、予習不足のためタオルを持っていなくて入浴断念。
参道を挟んだ向かい側には女性専用の霊泉もあります。
その近くには塔婆堂があり、その横に立つ卒塔婆の大きさには驚きます。
手水舎横にある、いかにも高価そうな亀の置物。イボ頭の亀と子亀、中国青田石と書いてあります。中国の方が奉納したものなのでしょうか?謎。それにしても恐山は連休中でありながら、アクセスに難あるせいか観光客は少ないです。そして不思議と少ない観光客の中心はアジア系の外国人でした。
こちらが本来の本堂とでも言うのでしょうか地蔵殿になります。本尊である円仁作の地蔵菩薩が安置され、さらに内陣奥には円空作の観音像と聖観音、十一面観音なども安置されているとか、いないとか。
地蔵殿を左手に進みます。ここから地獄巡りに入りますが、順路的にその手前にある奥の院へと先に向かうことにします。向かう人は少ないんですが本日の観光はここ1本なもので・・・
少し上って振り返ります。左下の建物が先程見た地蔵殿。奥には車で横を通ってきた宇曽利湖、さらに奥には釜臥山が見えます。地蔵殿の御本尊と、今向かっている奥の院の不動明王、釜臥山に安置された釜臥山嶽大明神は一直線に配置され、この三聖地をお参りすることによって当山参拝の結願が決定成就されるとのこと
地蔵菩薩は中心にして不動阿字の本体なり
若し衆生有って是の心知らば決定して成就
「仏説延命地蔵菩薩経」より

釜臥山には展望台もあるそうなんですが、時間の都合で寄れませんでした。願いも成就しないということなのか・・・
再び坂道を下りてメイン会場?でもある地獄へ。ちなみに奥の院は坂道ですが、歩いて数分でした。
まさに地獄絵図。至る場所から火山ガス(硫化水素)が噴き出しています。
慈覚大師を祀った大師堂です。至る所にある岩場には何とか地獄との名が付いている塚が数多くあります。まぁ、塚というか岩という岩に無限地獄とか重罪地獄や賭博地獄、みたま石などの名前が付けられてます。
大師説法の地と書いてあります。ここらへんが高台になっていて一番景色が良いです。
歩いてきた道を振り返ります。草木のないゴツゴツした岩ばかりです。火山ガスのせいで鳥すら飛んでいません。ちょっと怖い。
宇曽利湖もここからは綺麗に見えます。でもこの湖には魚がいないかと思うと、ちょっと怖い。実際にはプランクトンも多少いるそうで、酸性の水に強いウグイ(魚)も多少はいるらしいです。
さらに地獄を突き進みます。超有名な観光地でありながら、ここまで人がいないところは他にないかもしれません。ただ、イタコの口寄せが行われる夏の恐山大祭や恐山秋詣りなどは長い行列ができるほど混雑するそうですよ。
尚、イタコとは主に盲目の女性(霊媒師)によって行われる死者の口寄せ(交信)のことで、実際に盲目の人が目が見えないことによって五感以外の霊視的な能力があるのかは置いといて、個人的には心理カウンセラー的なものと理解しています。現在の様にイタコが集まるようになったのは戦後以降であり、高齢化により、今ではイタコの数も減少しているらしいです。
人は皆、それぞれが悲しき過去を持ちて賽の河原小石積みたり。宮崎県の天岩戸神社以来でしょうか、これほどまでに多くの小石が積み上げられているのを見るのは。
道に流れる小川の水を触ってみるとかなり熱かったです。60℃くらいはあったのかな?場所によって冷たかったりと区々(まちまち)なんですが。
大きな岩場を抜けたら、後は小石の積んである塚の間をひたすら前進です。
この後は湖へ抜けて元来た場所に戻ります。湖とは反対方向にも広場があるので歩いてみましたけど八葉塔なるものがあるだけでした。
賽の河原地蔵堂なんてのもありました。
コースを外れて血の池地獄へ。こういうのを期待していたんじゃない・・・
美しい宇曽利湖。でも小魚一匹見当たらず不気味な湖です。山々に囲まれていながら鳥の声も聞こえないし。
草履の鼻緒には亡くなられた人の名前が書かてれいます。死者の霊魂が集まるという恐山、なんだかかなり怖くなってきました。
角のない丸い石ばっかり積んであるとか怖いです。
この等間隔で置かれている麦わら帽子とか怖すぎです。しかも順路から少し離れたところってのがリアルに怖いです。肝試しに来ているわけではないんですけどね(笑)
順路から外れて軽く丘を上れば五智山展望台ってのもありました。
振り返れば五智如来。
ゴツゴツ感はなくなりましたけど相変わらず寂しい順路。
順路から離れた場所にあるグツグツと煮えたぎる地獄谷。動画もあります。動画を見ての通り誰もいません。これでも三連休の初日です。観光バスとかで団体さんが来ると一気に賑やかになるんですけどね。

●櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)
平泉合戦に戦功をたてた南部家初代光行の草創と伝えられる櫛引八幡宮。その後に南部藩の総鎮守として多くの人々に崇められています。多くの国宝や重要文化財を有し、境内には県内最古となる洋風建築の明治記念館など見所も多いです。

<住所>
青森県八戸市八幡字八幡丁3
<営業時間>
境内自由ですが国宝館は9:00〜17:00。

<アクセス>
ラピア、又は八戸中心街(往路:六日町、帰路:八日町)からバスで約20分、櫛引八幡宮前を下車です。バスの系統が少し複雑なので、バス案内は、中心街にあるはちのへポータルミュージアムはっちの利用が便利です。他、八戸駅⇔中心街間ではバスが10分間隔で運行しています。
大きな神社ですが、有名な観光スポットというわけでもないので、参拝客は地元の方が多いような気がしました。ただ、毎年9月頃に行われる秋季大祭では多くの人で賑わうらしく、 流鏑馬や神事武芸なども行われるそうですよ。
樹齢何年なのでしょう、境内には老杉がぎっしりです。あまりの高さに思わず『うわ〜!』って見上げてしまいます。
明治14年8月に竣工された八戸小学講堂は、明治天皇の東北御巡幸でこの講堂が行在所として用いられたそうです。現在は明治記念館として県内にある洋風建築では最古のものとのこと。ただ内部は見学できず・・・
正門の入口手前、右手には花崗岩で造られた八幡馬が奉納されていました。土産物屋さんに置いてある民芸品みたいで、そのフォルムは見ての通り滑稽な姿です。
正門の入口手前の左手には池があり河童さんもいました。本殿にも河童の彫刻があるそうなのですが、名工、左甚五郎に関する昔話からカッパと八幡様は縁があるのだとか、ないのだとか・・・
太鼓橋の先に見えるのが正門(1648年)で国の重要文化財に指定されています。正門の先が写真トップにもある拝殿(昭和59年)で、その拝殿奥に本殿があります。
参拝順路は右回りになっています。最初に見えるのが十六柱の神々を合わせてお祀りしているという合祀殿。オオクニヌシ(大国主神)などが祀られています。
続いてその奥には重要文化財にも指定されている末社の神明宮。ここではアマテラス(天照皇大神)を祀っています。ここには何故だか撫で大国さんもいます。
吉兆を占う重軽神。地域によって重軽石とか、おもかる地蔵だったり、重軽天狗だったりしますがどれも同じで、石を持ち上げて軽ければ願いが叶い、逆に持ち上げらなければ願いが叶わないとされます。地域によっては持ち上げられても重いと思えば願いが叶わないとか、片手で持ち上げないと駄目とか謎のルールがあります。他地域では京都の伏見稲荷大社なんかが特に有名です。
謎の建物。物置にしては、やや歴史を感じる建物。
拝殿裏にある本殿は国の重要文化財に指定されています。櫛引八幡宮では八幡大神(誉田別命)を主祭神とします。
本殿には写真の六葉をはじめ、脇障子には鷹にメドツ(河童)・梅に鶏太鼓、透かし彫りの桐に鳳凰文、本殿木鼻の獅子など特筆すべきものがあるそうです。
鷹にメドツ(河童)。よく見えな〜い。
貼ってある案内によれば、こんな感じだそうです。物語によれば江戸時代の名工であった左甚五郎、柱の寸法を間違えてその木材を川に捨てようとしたところ、この木には霊が宿っていて『やめてくれ』と叫びます。左甚五郎は構わず『うるさい、ケツでも食らえ』といってケヤキの木を投げ捨てます。川に捨てられた木はメドツ(河童)になり、ケツでも食えと言われたことにより、人を襲うようになってしまいます。困った村人は八幡様に助けを乞い、使いの鷹が河童を押さえこんだ様子を表したのがこの彫刻だそうです。尚、河童の頭のてっぺんが剥げているのは、鷹に激しくつつかれた為なんだとか。
足下の横板に切られた栗の形に似た御室(おむろ)。ここには稲荷大神の使いの白狐が祀られていると伝わり、かつて八戸の街中が焼け落ちた八戸大火の際、白狐が夜半にこの御室より出て本殿の周囲を駆け廻り、その災いを伝えたとされます。
御神木の三杉。一本の杉が上部で三本に分かれている珍しい杉で、古くより三杉様と呼ばれているのだとか。
うお〜!と、三杉様が天高く伸びています。
末社の春日社。重要文化財です。ここではアマテラスが天岩戸に隠れた際に、祝詞を唱えたというす。アマノコヤネノ(天津児屋根神:あまつこやねのかみ)を祀っています。なんともマニアックな神様を祀っています。
右手には京都の伏見稲荷大社より御分霊を勧請したという倉稲霊神(うがのみたまのかみ)を祀る松福稲荷神社(しょうふくいなりじんじゃ)、左手には同じく倉稲霊神を祀る悶破稲荷神社(もんぱいなりじんじゃ)。
ひょうたん掛け所。悪いものを吸い込み、良いものを出すと言われる無病息災の縁起物。
順路の最後になる建物は長所(旧拝殿)で、こちらも国の重要文化財に指定されています。わずかに残る建物の朱色は当時の極彩色豊かだった頃を連想させてくれます。
神社でよく見る夫婦杉。いつもは珍しがって見る夫婦杉ですが、三杉様を見た後は普通(笑)。

●蕪島(かぶしま)
ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている蕪島。この蕪島には繁殖を目的として2月下旬に着島し、4月下旬から産卵が始まり、約1ヶ月で孵化します。7月下旬には島を飛び立ち、一部のウミネコはこの蕪島で越冬します。ウミネコの繁殖地は、離島など人里離れたところが多く、蕪島のように市街地にあることは珍しく、繁殖の様子を間近で見ることができる国内唯一の場所でもあります。

<住所>
青森県八戸市鮫町
<アクセス>
JR八戸線の鮫(さめ)駅から徒歩約15分。尚、八戸線は毎時1本程度の運行しかないので注意です。境内自由。
手水舎にもウミネコさんがいます。ウミネコはカモメの仲間で、その鳴き声がネコに似ていることから、その名が付いたとされます。
東日本大震災でも倒壊しなかった蕪嶋神社の社殿ですが、その後の火災によって現在は弁財天様が寂しく安置されている状態です。八戸のシンボルでもある蕪嶋神社の一日も早い再建を願います。
ウミネコの繁殖の様子が間近で見ることができる国内唯一の場所です。訪問時は完全な時期外れで、海辺を飛ぶ数羽しか見ることができませんでしたが、驚くことに観光客は多くいました。

日本には多くのカモメが生息していますが、日本で繁殖するのはウミネコと、ウミネコよりも一回り大きな体のオオセグロカモメだけだそうです。

●根城(ねじょう)の広場
根城(ねじょう)は1334年、南部師行(なんぶ もろゆき)によって築城された平山城で、主殿と呼ばれる儀式を執り行った建物を中心に工房や納屋、馬屋なども復元整備されています。

<住所>
青森県八戸市大字根城字根城47
<営業時間>
史跡 根城の広場は見学自由ですが、本丸のみ9:00〜17:00、250円です。隣接する八戸市博物館との共通券は400円。 月曜日、祝日の翌日(土・日曜日の時は開館)、年末年始は休館。

<アクセス>
八戸駅、または八戸中心街(往路:六日町、帰路:八日町)からバスで約10分、根城(博物館前)を下車です。
隣接する八戸市博物館の近くに根城の広場の入口があります。その広場の奥に本丸があり、本丸までは徒歩5分くらい歩きます。こちらの写真は敵の侵入を防ぐ目的でつくられた空堀の跡だそうです。
とにかく広場の中をひらすら歩きます。
こっから有料の本丸です。写真は当主が特別な来客と会ったり、様々な儀式を行ったとされる主殿で、儀式を行う道具や、南部家に伝わる重宝もここに納められていたとのことです。
こちらの建物は当主が所有している馬を繋いでいた上馬屋(かみのうまや)だそうです。
同じく馬屋になりますが、こちらは来客の馬が繋がれていた中馬屋(なかのうまや)と呼ばれるところだそうです。
本丸では発掘で発見された建物跡に基づいて立体復原されているそうです。実際に昔あった場所に建てられているため、無駄に広い・・・
ここは竪穴式の工房。
ここでは職人たちが合戦や儀式にそなえ、鎧や弓などの修理をしていたところなんだそうです。
鎧や刀の部品を作っていた鍛冶工房。
この建物も発掘調査によって実際に当時この場所にあったらしいです。
当主やその家族が奥御殿で使う道具や衣類を入れていたという板蔵。
米や味噌、梅漬けなどが入れられていたという納屋。
根城の広場ではボランティアによる史跡ガイド(約1時間)を無料で頼むことも出来るそうですよ。

●八戸市博物館
八戸市博物館では、縄文時代から根城南部氏が活躍する中世、江戸時代の八戸藩から現代までの八戸の歴史を学ぶことができます。

<住所>
青森県八戸市大字根城字東構35-1
<営業時間>
9:00〜17:00、250円です。隣接する史跡 根城の広場の本丸との共通券は400円。 月曜日、祝日の翌日(土・日曜日の時は開館)、年末年始は休館。

<アクセス>
根城へのアクセスと同じになります。
博物館前に建つ南部師行像。1333年、後醍醐天皇は、奥州を治めるために北畠顕家(あきいえ)を陸奥守に任じました。 このとき南部師行等もこれに従い陸奥に向い1334年、師行は広大な陸奥国の北半を治めるため根城を築きました。
南部師行は国司の代官として南朝方の中心的な存在として活躍しましたが、1338年、師行は北朝方の足利軍との戦いに破れ、主君の北畠顕家と共に討ち死にし、二度と八戸の地を踏むことはありませんでした。その後、師行の子孫達は、1627年に遠野に移るまでの約300年間にわたりこの地に住み続け、 八戸発展の基礎を築いたそうです。
重文の縄文時代後期の甕棺墓。この人骨は成人女性らしく、遺体が白骨化してからあらためて、土器に遺骨を埋葬したものなんだそうです。
県重宝の四天王の一人、あるいは七福神の一人にも数えられている毘沙門天像。
縄文時代、キノコ狩りをする時に食用キノコと毒キノコを見分けるための見本としていたと思われるキノコ型土製品。見分けるための見本としては、あまりにも・・・
昭和の家屋も再現されていました。博物館には八戸の歴史もいっぱい詰まっています。
懐かしさを感じる一枚ですね。左下に、やきいも屋(昭和30年)と書かれています。

●是川縄文館(これかわじょうもんかん)
縄文時代の是川遺跡や風張1遺跡などの出土品を通し、優れた縄文文化の魅力を伝える是川縄文館。館内一番の見所の国宝の合掌土偶をはじめ、中居遺跡(是川遺跡)から出土した土器の美しい漆塗りや複雑な文様が施された高度な工芸技術には驚かされます。

<住所>
青森県八戸市大字是川字横山1
<開館時間>
9:00〜17:00 250円。休館日は月曜日(第一月曜日、祝日・振替休日の場合は開館)祝日・振替休日の翌日(土・日曜日、祝日の場合は開館)年末年始。

<アクセス>
本八戸駅、または八戸中心街(中央通り)からバスで是川縄文館を下車です。運行本数が日に数本なので注意です。他、循環コミュニティバス、るるっぷ八戸でのアクセスも可能です。こちらは毎時1本程度の運行です。
ここに来るまでは、八戸市博物館より知名度も人気もないし、寂しい感じの博物館なのかな?と思いましたが、いやいや来て見てビックリ!立派な博物館でした。
是川遺跡は、泉山岩次郎・斐次郎兄弟によって、大正9年から昭和の初めまで発掘が行われ、是川遺跡の出土品がすべて是川の地に残されているのは両氏の功績によるものなんだそうですよ。
こんな感じの演出もス・テ・キ。
是川遺跡は、中居、一王寺、堀田の三つの遺跡の総称です。昭和32年に是川石器時代遺跡として国の史跡に指定され、特に中居遺跡の出土品は、縄文時代の高い工芸技術を示す貴重な資料となっています。
館内には重要文化財に指定された漆塗り土器がゴロゴロ展示されていました。どれもこれも美しく、是川縄文人の高度な工芸技術に驚かされます。
そんでもって館内の雰囲気もス・テ・キ。
漆塗りの櫛と耳飾り。縄文人がウルシの木から採取した樹液を丁寧に漉して精製する技術を持っていたことにも驚きです。
こっちには重要文化財の土偶。
こっちも重文の土偶。
結局、どれもこれも重要文化財の土偶だらけです。
是川中居遺跡が営まれた縄文時代晩期には、複雑な雲形文様が描かれた土器や、女性を象った精巧な遮光器土偶など、装飾性に溢れた道具がみられます。
これまた重要文化財です。
同じく重文の香炉型土器。
結局、土器もどれもこれも重要文化財というから驚きました。
重要文化財だらけの博物館、シメは国宝の合掌土偶です。この博物館の目玉でもあります。合掌土偶は座った状態で腕を膝の上に置き、正面で手を合わせている形から名付けられました。頭部などに赤く塗られた痕跡があり、全身が赤く彩色されていると考えられています。
ついでに正面からも。それにしても何故合掌?縄文時代に合掌のポーズとは、考えれば考えるほどロマンを感じます。


青森県の観光